2024-12-31

アントニイ・バークリー「地下室の殺人」


とある住宅の地下室、その床下から女性の射殺体が発見される。調査にあたったモーズビー警部は、苦心の末に被害者の身元を突き止める。彼女はある学校で働いていたのだが、モーズビーは友人の小説家ロジャー・シェリンガムがそこで臨時に授業を行っていたことを思い出し、彼のもとを訪ねるのだった。


1932年長編。全10作あるロジャー・シェリンガムもののうち8作目にあたります。
シェリンガムはくだんの学校において水面下で進行していた様々な不和を察知しており、それらを使って小説を書きかけたこともあった。モーズビーはシェリンガムに被害者の名前を教えず、自身で書いた原稿を読みなおしてそれを当ててみては、と提案する。

ここで、70ページと少しある「ロジャー・シェリンガムの草稿」という章が挿入されます。ユーモアを交えながらも、(事件が起こる以前の)教師たちの人間関係や、その間で持ち上がっていた問題が明らかになっていく。
しかしよく考えると、わざわざ作中作の形式をとる必然性はないのでは。この部分の内容を最初に語っておいて、次にモーズビーらによる捜査を描けば済むだけの話ではないか。
被害者当ての趣向にしても、大して推理らしいものもなく、簡単に答えは明かされてしまうのだから。

ともかくその後、再びモーズビーによる捜査の様子がこと細かに描かれます。4分の3くらいまで物語の中心になっているのはモーズビーの活動であって、手堅い警察小説としての趣きであります。
そうして犯人の目星は付いたが、証拠がない。取り調べではったり交じりの揺さぶりをかけるが、被疑者は全くひっかかってこない。進展がなくなったことでようやくシェリンガムが本格的に動き出します。しかし、「単に一瞬頭にひらめいたことを話したにすぎな」いのに、それである関係者の重大な秘密を言い当てたりするのは、どうなのだろう。シェリンガムも作者も楽をし過ぎでは、と思わなくはない。

そのシェリンガムの推理だが想像力に基づく、といえばもっともらしいが内実はとても恣意的なものに思えるし、細部などはあいまいなままだ。犯人がいかにして被害者を地下室に連れ込んだか、をさんざん問題にした挙句にこの説明では納得はし難い。結局のところ、その推理が真相となるか否かは作者の匙加減ひとつであります。客観的に見ると、警察が目を付けた人物が実は潔白であった、という根拠は薄弱なままなのだから。

そして、この作者らしい捻りをもって物語は閉じるのですが、同時にパズルとしてのいい加減さにも駄目押しになっていて、じゃあモーズビーによる捜査に対するシビアさはなんだったのか、という気はします。

読んでいる間はそれなりに面白かったのだけれど、こじんまりしていて、バークリイ作品の中では落ちるかな、と思いました。

2024-12-01

アンソニー・ホロヴィッツ「死はすぐそばに」


探偵ホーソーンもののシリーズ5作目で、英国でも出たのは今年だそう。

これまでの作品ではすべてワトソン役であるホロヴィッツによる一人称で語られていたのだが、今作は三人称を採用、事件関係者たちの視点より物語が始まる。そこでは殺人が起こる以前、被害者が皆からいかに嫌われていたかが描かれている。
クリスティはポアロものからヘイスティングズをお役御免にすることでマンネリを回避、ミステリとしても形式の自由度を獲得したのだが、このシリーズ内からホロヴィッツを追い出すわけにはいかないだろう。次の章に入ると、それまでの文章が作中存在としてのホロヴィッツによるものであったことが明らかになる。

ホロヴィッツは出版エージェントから、ホーソーンを主人公にした作品の新しいのを書けとせっつかれていたのだが、そう都合よく事件は起こってくれない。そこで、自分と出会う前にホーソーンが解決した事件を小説化することを思いつく。ホーソーンはそのことに同意はしたものの、事件についての資料は全部まとめてではなく段階的に分けて渡し、解決は最後になるまで教えない、という。ホロヴィッツは結末がわからないまま作品を書くことになったのだ。
以降、章ごとにホロヴィッツによる作中作と現実パートが交互に語られるのだが、作品の中盤あたりでホロヴィッツによってミステリとしてはあるまじき行為がなされる。果たして物語はどう決着をつけるのか。

謎解きは伏線回収のつるべ打ち、といった感じのキレキレのもので読み応えがあります。いつもながら、本当にうまい。
ただ、この作品に関しては(はっきりとは書きませんが)ある難しい趣向を扱っていることが明らかになります。そのせいか、次第にホーソーンの推理にも想像に過ぎないところが増えていき、全体としての説得力が弱い印象を受けてしまう。
本書の中でホロヴィッツが密室ミステリを批判するのに「犯人たちはあまりに手ぎわがよく、ときとして人間離れしているほどだ」と語っているのだが、その言葉はこの作品自体の犯人像のほのめかしだったのかも。

それでも、真相を宙吊りにするような最後の展開は豪いもので、奇妙な非現実感すら漂っている。その直前までクリスティかと思って読んでいたら何だこれは、というね。ひとによってはやりすぎと感じるかもしれませんが。

結構な意欲作だと思います。プロット上のツイストも効いていて、読んでいる最中の面白さはシリーズでも上位でしょう。