2022-09-23

エラリー・クイーン「Yの悲劇【新訳版】」


創元推理文庫からの新訳『Yの悲劇』です。
創元の新訳クイーンとしては2年ぶり、前作『Xの悲劇』からは3年ぶり、角川文庫での新訳『Yの悲劇』からは12年ぶりになります。最近はハヤカワ文庫が頑張っている分、創元のクイーンのほうは熱が落ち着いてきたのかな、という気はします。
本当をいうと『Yの悲劇』の仕掛けのひとつは、『Xの悲劇』の記憶があまり薄れてしまうと効果が弱まってしまうのだが。

さすがに今回はそんなに面白くは読めないだろう、と思っていたのだが、いやあ、そんなことはなかった。もちろん、筋書は知っているのだけれど、むしろ作品への理解が進むほどに事件全体の構図、その異様さに驚く。作中で何度も立ち上がる故ヨーク・ハッターの影、これがたんに虚仮脅かしというのではなく必然であるというのも凄い。なかでも『バニラ殺人の謎』の構想「一人称視点。犯人は筆者」であり、「ヨーク(私) Yと略す。犯人」のもつ威力と言ったら。クイーンがレベルの混交に対して自覚的であったことを明確に示すものだ。
そして、それほどまでに奇妙な事件が証拠に基づいたシンプルなロジックで解かれてしまう、というのもまたクイーンらしい恰好良さ。

もし後期のクイーンなら真犯人としてヨーク・ハッターを名指したか。あるいは3度目の未遂事件の前までは、真犯人は決定不可能としたかもしれない、なんてことを考えました。
あと、若島正の解説はめちゃめちゃ明晰、10ページほどだがとても面白かった。

2022-09-17

Burt Bacharach / Casino Royale (50th Anniversary Edition)


スペインのQuartetというと古い映画の珍しいサウンドトラック盤リイシューで知られている会社ですが、ヨーロッパにあるサントラ専門のところの例に漏れず、カタログの殆どが枚数限定で、それに従うようにお値段も少し高めです。わたしのようなサントラ半可通が良さそうだな、でも高いなあ、なんて思っているうちに価格がどんどん上がっていく、もしくは入手不可にということはしばしばあります。
ただし、「Casino Royale」は色んなところから何度か出し直されてきたタイトルであり、Quartetにしては枚数を多めにプレスしたこともあってか、出されてから5年経った現在でもまだ普通に買えそうです。


「Casino Royale」のサントラを最初に再発したのはおそらく米Varese Sarabandeだと思う。わたしもそれで長いこと聴いていたのだが、これは音に歪みやドロップアウトがあって、あまり良いとはいえなかった。
さらに悪いことにVarese~では、そのデジタル・トランスファーの際にオリジナル・マスター・テープを損傷させてしまったらしい。そして、これより後年に他社から出たリイシューもこの傷物のマスターを使ってきました。

2012年になって、Quartetからこのアルバムの45周年2枚組CDが出ました。1枚目が映画で実際に使われたスコア(モノラル)を完全収録。2枚目がサントラ盤のリイシューで、このときはスペインで見つかったサブ・マスターが使用されました。
この盤も持っているのだけれど、コンプリート・スコアには疑似ステレオっぽいエコー処理がなされているのですね。肝心のサントラ盤のほうも分離がいまいち良くない感じがするし、ピーク部分になると音が潰れているようで、満足とまではいかなかった。


で、その五年後に再度Quartetから50周年盤として1枚ものが出たわけです(この時には権利者から2枚組にする許可が下りなかったそう)。オリジナル・サウンドトラックにフィルム・スコアからの抜粋、初CD化となるマイク・レッドウェイ "Have No Fear Bond Is Here" シングル・ヴァージョンで77分強まで詰め込まれています。
このリイシューの際には、良いソースを探し、吟味した結果、マスター・テープが損傷する以前に作られたデジタル・トランスファーのデータがあって、それが手に入るもので一番だったと。マスタリングは音圧控えめでダイナミック・レンジを尊重した丁寧な仕上がり。これなら安心して聴けます。
また、フィルム・スコアの方も、変な加工をせずナチュラルな響きのモノラルです。


バート・バカラックの音楽については今更、言うこともないか。最高。
ゴージャスで華やか、スケール感があっても決して重くならない、やっぱハリウッドってすげえなあ、と思ったら、これ、基本はロンドンでの制作なのですね。失礼だけれど、かの地にもえらい録音エンジニアがいたのね。あるいはフィル・ラモーンの力か。

2022-09-03

エラリイ・クイーン「ダブル・ダブル〔新訳版〕」


「いないんだよ、リーマ。あれは幻想だ。銀をモチーフとした象徴的表現さ。彼女は本来の居場所、つまり書物のなかから直接やってきた。恥を忍んで言うと──ぼくも昔、マルヴィーナみたいな登場人物を書いたことがある」

1950年発表の長編。
『ダブル・ダブル』まで新しい訳で出るとは。この作品、わたしは旧い訳のもので二回くらい読んでいるはずなのだが、そんなに感銘を受けた覚えがない。忘れているだけかもしれないけれど。
中期以降のクイーン作品は半世紀くらい昔に翻訳されて、それっきり誰も手をつけていなかったのだけど、(ディクスン・カーなどとは違い)ひどい訳文のものが放置されていたわけでもないので、改められる必要をあまり感じていなかった、というのも本当のところ。
さて、この作品の読みどころはなんだろう。ライツヴィル・サーガとしてのものだろうか。

いい加減、感性が擦れ切ってしまった今見ると、リーマ・アンダーソンの設定はあざとすぎるように思うのだが、「これはファンタジーの世界のミステリですよ」という宣言のようにも思える。また、事件の主要な関係者がみな揃って形式化された通り名を持つのも、おとぎ話らしさを裏打ちする。あと、ライツヴィルにも押し寄せた近代化の波、その象徴のようなマルヴィーナ・プレンティスの描かれ方はいかにも戯画的だし、他にも、エラリイがリーマにミッションを伝える際には、探偵小説のキャラクターをなぞるように命じているのだ。
作品を後半まで読み進めていくと、こういったフィクション感の念押しはプロット上の要請であることがわかる。

全く手掛かりがない、事故か犯罪かも判断できない状態からエラリイが見出したのは、ある童謡の見立てであった。ただ見立て連続殺人というだけでもファンタスティックなのだが、さらにもうひと捻り。そのねじれ具合がもうクイーンでしかありえなさそうなもので、嬉しくなってくる。ただし、うまくいってはいないのだな。

解決を迎えるときにはもう、キャラクターが作者に都合のいいだけの駒に戻ってしまっている。リアリティは犠牲にされ、犯人の心理にも説得力がない。仮に舞台がライツヴィルでなかったなら、こんなに違和感を持たなかっただろうか。
パズルとしてはどうだろう。クイーン自身の作風をミスリードに使っているふしもないではない。事件のどれが犯罪でどれが事故なのかが決定するまでは、そちらの犯人でも成り立ってしまう。そんなことを考えてしまうのも、ディテクションの作品としては全く物足りないからだ。エラリイが真相に行き当たった道筋は推理によるものとは言い難い。
ただ、犯人が見立てを使った理由はクイーンらしくて、これにはわたしは満足してしまいました。

クイーンの個性が強く出ているようで、わたしは面白く読めたけれど、出来は今一つ。やはりこれはファン向けの作品だと思う(1950年以降の長編は全てそうだけれど)。