2017-01-28

アルフレッド・ベスター「破壊された男」


1953年発表になる、ベスターの長編第一作。

時は24世紀、テレパシー能力のあるエスパーが社会のなかで重用されるようになっていた。そして、意識を監視することが可能になったことから、多くの犯罪が未然に阻止され、謀殺にいたってはもう79年間も成功していなかった。
そんな世界で、巨大企業の社長、ベン・ライクはライバル会社の社長の殺害を決意する。

このベン・ライクというのは非エスパーであるが野心家で気が荒く、なおかつ策士とあって、凄く魅力的なアンチ・ヒーローです。彼は自分の権力を存分に利用しながらエスパーたちの目を掻い潜り、完全犯罪を目指します。
一方で警察側の中心人物となるのが、リンカーン・パウエルという一級エスパー。エスパーにも階級があって、三級では単に口に言葉を出さずに会話をできるレベルですが、一級ともなると他人の意識の奥底、本人の気づいていないところまで読み取ることができる。パウエルはそういった能力を持つごく一部のエリートの一人。もちろん有能な警官でありますが、テンションの高いベン・ライクとは対照的にどこか飄々としてユーモアを解すところがいい。

いきいきと描かれたキャラクターの魅力、スピード感のある展開に、互いに相手の裏を掻こうとする戦略などでぐいぐいと引っ張られ、一切のだれ場がなく進んでいきます。いわば文明の発達した未来(あるいは異世界)を舞台にしたミステリ、アクションの面白さなのですが、これが終盤になるとひとつ次元の違うところに入っていきます。SFとしての本領を見せつつ、それまで放り出されていた謎も解かれていく。
そして結末で明らかになる破壊という言葉の意味。

古典らしい力強さを持ちながら、現代でも十二分に通用するセンスが感じられるエンターテイメント作品でございました。

2017-01-15

アガサ・クリスティー「フランクフルトへの乗客」


1970年発表のノンシリーズ長編。
クリスティ自身による長めの前書きがついていて、大雑把に要約するとキャラクターは純然たる架空のものだが物語の背景は現実の反映だ、ということなのだけれど。これは作品を楽しむ上で逆効果になっているのでは。何といわれようが登場人物の主張イコール作者の思想、と取ってしまう読者は少なからずいる(評論家にも安易に結びつける人は多い)。実のところ、あまりに荒唐無稽な作品であることを自覚したクリスティがあらかじめ予防線を張っているに過ぎないと思うのだ。

作品のほうは、結論からいうとB級パルプスリラーといったところ。
はじめのうちは謀略小説のように展開します。クリスティのそれまでのスリラーと比べても乱暴というか、どんどん広げた風呂敷が大きくなっていく。これ、校正したのかな? と感じるような辻褄の合わない描写もあります。また、キャラクターが薄っぺらなのは戯画的な面を強調するためだとは思うのだけれど、ユーモア味があまりないのが痛い。かろうじて葉巻好きの大佐の描写に見られるくらいか。
後半になると、物語はまったく予想もつかない方向へ豪快にシフトしていきます。

まあ、〈コミック・オペラ〉という副題が付いている作品なのです。シリアスに受け取って読むものではありません、これは。舞台化されたものをイメージすれば、相当に強引な展開にも納得がいくのでは(病弱な博士がぐんぐん元気になるところなど、本来は笑い所でしょう)。
ミステリとしては大したことはないですが、エラリー・クイーンのファンなら主人公のおばによる操り、という仕掛けは(いささかあからさま過ぎますが)見逃せないか。

2017-01-13

フランシス・M・ネヴィンズ「エラリー・クイーン 推理の芸術」


なんというか、労作ですね。クイーンの作品を全て読んできたひとにとっては、値段なりの価値はあります。

まず作品ひとつひとつの美点・欠点やアイディアのリサイクルに対する指摘がいちいち明確でうなずける。しかし、『三角形の第四辺』などくそみそだな。
ライツヴィルものに多く見られる欠点として挙げられているのが、実在感ある人々や社会の描写と、現実離れした動機及びロジックの喰い合わせの悪さ。我が国の現代ミステリはこれがさらに行き過ぎているようで、個人的にはあまり読む気がしなくなったのだ。

1930年代の終わりから1948年までの間、クイーンはラジオ・ドラマの脚本を手がけていて、それに関する文章には100ページ以上割かれている。それだけ、この時期がクイーンのキャリアの上で非常に重要であったということなのだが、予想以上に多かった。全エピソードの内容について触れていて、未知のものが多いとなると読むのがなかなかしんどい。
しかし、週一作のペースで謎解きの脚本をひねり出すというのは恐ろしく疲弊したに違いない。1940年代半ばにフレデリック・ダネイはプロット制作から降り、あとはアントニー・バウチャーらに引き継がれることとなった。
また、後に小説化された「クリスマスと人形」(ネヴィンズは『犯罪カレンダー』の作品中でも「文句なしに最高のもの」と絶賛している)はマンフレッド・リーがダネイのプロット無しに単独で書いたものらしい。

そのほか、気になったところをいくつか拾ってみると。
・『十日間の不思議』が発表された頃、アントニー・バウチャーがダネイ宅を訪ねたところ、そこにはジョン・ディクスン・カーもいたという。カーは『十日間~』にどのような感想を持ったのか気になる。なお、本書でダネイの親友として挙げられているのはカーとダシール・ハメットです。
・『クイーンのフルハウス』や『犯罪実験室』収録作のうちいくつかはリーがスランプの時期に発表されたものであるゆえ、ダネイのプロットを小説化したのは誰かほかの人物らしい。短編の代作については考えてなかったなあ。
・1960年代に出版されたペーパーバック・オリジナルはリーの財政的な問題を救うためのもので、一応はリーの手は加わっているが、ダネイはまったく読もうとはしなかった。また、英国ではハードカバーで、真正のクイーン作品と同じ黄色いカバーを付けて出されていた。
・リーが執筆に復帰したのは長編『顔』(1967)からであり、ダネイの梗概をもとにアヴラム・デイヴィッドスンが小説化した『真鍮の家』(1968)はそれ以前に書かれたものだと推測されている。
・ホルヘ・ルイス・ボルヘスの作品が初めて英語圏に紹介されたのは《エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン》。

本書の最後の章「付録2 フレッド・ダネイと働いて遊んで」では著者、ネヴィンズとダネイの個人的なかかわりについて書かれているけれど、《EQMM》に寄稿された作品に対してダネイが具体的にどのようなアドヴァイスや改良を施していたかを知ることもできる。
また、この章ではダネイからネヴィンズへの私信の抜粋がたくさん載せられていて、その文面からひととなりが伝わってきます。
「マニーと私はいつも、Qのヒゲを二本描いてきた。特に、サインをするときにはね。二本のヒゲは、二人の人間が合作していることを示しているのだよ」

2017-01-04

Roger Nichols Treasury


ロジャー・ニコルズのデモ、CM、TV音楽などが2CDに69曲とぱんぱんに入った日本企画盤。元になる音源は400トラックにも及んだそうですが、コーディネイターである濱田高志氏は「最初で最後のデモ&CM集」と書いています。
歌っているのはロジャー本人だったり、セッションシンガーであったりとさまざま。


ディスク1は商業的な楽曲のデモ集。
曲は年代順に並んでいて、最初の10曲が1967、68年のもの。スモール・サークル・オブ・フレンズによるものが3曲あって、これらにはやはり特別なマジックがあるように感じてしまう。また、ロジャーがマレイ・マクレオド、スモーキー・ロバーズというパレード組と一緒に歌っているものがひとつあって、これもよろしいですなあ。これら4曲だけでも元を取った気になった。
また、ハーブ・アルパートのために書かれたというインストが4曲あるのだけど、これらは本当にデモなのだろうか。まださほど売れていないソングライターのデモ程度に管楽器を3本も入れたりしていたら金がかかって仕方がないと思うんだが。曲によっては相当にうまいドラムが入っていて、これらはスタジオ・リハーサルか何かが本当のところでは。

続いてはポール・ウィリアムズが歌うものが8曲。内容は昔、オフィシャルでも出ていたデモンストレーション用アルバム「We've Only Just Begun: Composed By Roger Nichols & Paul Williams」に近い。
このひとのボーカルは、じめっとしているようで昔はあまり好きではなかったのだけれど、今ではそうでもない。むしろ、ニコルズ=ウィリアムズによる曲については誰よりも丁寧に歌っているようで、一番しっくりくる。

残りは1972~83年のものが12曲。いろんなシンガーのうちでもマレイ・マクレオドの声の相性が抜群ですね。また、ジェリー・ゴーフィンとの共作曲があったのにちょっと驚いてしまった。

ところで、これらのうち'70年代以降のいくつかの曲は最近になってからミックスやオーバーダブがなされているのではないかな。エコーや音の感触が違いすぎるもの。特に18~20曲目は安い感じがしてちょっと興醒めです。

出版社によるデモンストレーション・レコード
「We've Only Just Begun」

ディスク2の前半はCM曲集。30秒ほどの短いものもあれば2分くらいあって独立した曲として成立しているものも。インスト曲もありますが、どれも一瞬耳を捉えるメロディが光ります。また、大手の会社の仕事が多く、そういうところは流石にしっかりしたプロダクションのものになっていますな。
こちらの一曲目は "We've Only Just Begun" の元となった、銀行のCMソング。これや、あるいは前述のデモ・アルバムでの "We've Only Just Begun" はやや跳ね気味のミディアム・テンポで処理されていて、個人的にはカーペンターズや後にポール・ウィリアムズが自身のソロ・アルバムで取り上げたヴァージョンより好みです。

後半はTV番組のために書かれた曲と近年になって制作されたものでまとめられています。こちらにもジェリー・ゴーフィンとの曲がひとつありますね。
しかし、時代が現代になるにつれて落ち着いた曲ばかりになってしまうのは仕方がないのかな。やや単調に感じてしまうのだが。

このディスクの終わり近くに収録されている "Look Around" は、再結成スモール・サークル・オブ・フレンズのアルバムに入っていた曲。プロダクションが簡素であることで、かえってメロディの良さが伝わりやすくなっていると思います。いや、いい曲ですな。


統一感はありませんし、特にディスク2はポップソングもあればそうでないものもという風で、完全にファン向けの企画盤ですが、アタマからケツまでこのひとならではのメロディが詰まった2枚組ではあります。

2016-12-31

アガサ・クリスティー「ハロウィーン・パーティ」


女流探偵作家のアリアドニ・オリヴァが顔を出したのは、ティーンエイジャーが集められ、さまざまなゲームが行われるハロウィーン・パーティ。その最中にある女の子が、自分は殺人を目撃したことがある、と言い出す。注目を引くためのでたらめだ、と誰も本気には取らなかったようなのだったが、パーティが終わったときにその娘は死体で発見される。すっかり動転してしまったミセス・オリヴァは旧知のエルキュール・ポアロに助けを求めた。


1969年発表のポアロもの長編。
作中人物たちの多くは、年端もいかない子供などを殺すのは精神異常者の仕業だ、と口にするが、ポアロははっきりとした動機のある犯行である、と考えて捜査を行う。その過程で、過去に起こったいくつかの事件の姿が浮かび上がってくるが、それが今回のものと関係があるのかはわからない。
ひたすらポアロが聞き込みを続けていくという展開のため、やや単調さを感じますが、物語後半の急展開とそこからのスリルはなかなかのもの。

フーダニットとしてはシンプルな手掛かりが直接に犯人を指し示すもの、なのだが、あまりに状況が作り物めいている上、余詰めの配慮がまるで欠けている。また、複雑なものである犯罪の背景に関する伏線に乏しいのもいただけない。
一方で、被害者の心理を巡るツイストは実によくできていると思います。

ややファンタスティックな犯人像は決して悪くないと思うのですが、無駄に多く感じられるキャラクターたちや、未解決のままで終わる過去の事件などのせいで、小説としては冗長なものであることは否定しがたいですね。

2016-12-29

Get Down With James Brown: Live At The Apollo Vol. Ⅳ


またの名を「Get Down At The Apollo With The J.B.’s」――どちらが正しいのかはともかく、1972年に制作されながら、当時はリリースされなかったジェイムズ・ブラウン一座の、アナログでは二枚組のライヴ・アルバムであります。
収録曲のうちいくつかはこれまでに編集盤などで発表されています(ミックスは違うかも)。また、J.B.'sのアルバム「Doing It To Death」での、ダニー・レイによるイントロダクションがここから取られていたこともわかりました。

これは二部構成のショウのファースト・セットで、いわば前座が中心のものです。
流れとしてはアナログA面に当たるのがJ.B.'s。そしてB面に入るとそこにジェイムズ・ブラウンが参加。ジャクソン・ファイヴの "Never Can Say Goodbye" のインストカバーではオルガンとMCで活躍、スタジオ・ヴァージョンよりぐっと長い演奏になっています。以降、C面の途中までJ.B.'s+ジェイムズ・ブラウンでの演奏が続き、がんがんに盛り上げておいてから当時の最新ヒット "There It Is" を歌うと、ブラウンはステージから引っ込みます。
次に登場するのはリン・コリンズで、フィーメイル・プリーチャーの異名通り、観客(特に女性客)をあおる、あおる。さながらウーマン・リヴの闘士のよう。個人的にはJBファミリーの歴代でも特に好きなシンガーというわけではないのですが、こうやってライヴでの歌を聴くと、やはり実力があったのだな、と思います。
締めのD面はボビー・バード。気合の入った、グリッティという形容がぴったりのもので、僕は聴き慣れているけれど、決してうまい歌ではないな。時にイモ臭くもある。しかし、"I Know You Got Soul" は何度聴いても燃えてくるよ。

ジェイムズ・ブラウンの歌が一曲(しかも既発表)しかなくとも、演奏のほうは文句無しに格好良くって、雰囲気も最高、個人的には大満足ですたい。
特徴的なのはベースギターがくっきりとミックスされていることで、これによって現代的な印象のものになっているかな。

2016-12-25

レイモンド・チャンドラー「プレイバック」


二年に一度の村上春樹訳チャンドラーであります。
『プレイバック』はチャンドラー最後の長編だが、出来のほうは一番落ちると思っていました。しっかりとした芯が無いというか、いまひとつはっきりしない物語で。

今回読み直していて感じたのが切迫感のなさ。フィリップ・マーロウが仕事の領分を越えて積極的に事件と関わっていくだけの動機が、この作品ではあまり伝わってこない。そして、マーロウの行動にも妙にのんびりしたところがある。
また、ミステリとしての骨格はかなりシンプルで、実のところマーロウがいてもいなくても事件の様相はさほど変わらなかったのではないかな。
文体の方を取ってみると、若いときのようにはきびきびしていないけれど、前作にあたる『ロング・グッドバイ』ほど圧倒的なレトリックが駆使されているわけでもない。穏やかなテンションに覆われたものだ。

既にチャンドラー自身がマーロウの在り方を受け入れられなくなっていたのかもしれない。もしくは、時代が変わってしまったせいか。マーロウはいかにもマーロウが言いそうな科白を口にしていて、相当に格好よく、思わず引用したくなるようなくだりもいくつもある。しかし、それらはもはやかつてのような、ぎりぎりの立場から発せられたものではない。
そして、小切手をめぐるやりとりの説得力の無さや、あまりに理想化された女性キャラクター。厳しく見れば、抑制が利かなくなっているようだ。

なんだかひどいことしか書いていませんが、これもまぎれもない、チャンドラー独自の世界を味わえる作品には違いありません。
実をいうと、この『プレイバック』でチャンドラーは今一度、ハードボイルド小説のスタイルに立ち返ろうと試みたのではないか、という気もするのだが。