2017-09-03

ヘレン・マクロイ「月明かりの男」


ドイツから亡命してきたユダヤ人である生化学者の死体、それをとりまく状況はあらゆる点から見て自殺を示していた。だが、故人は数時間前に、自分は決して自殺をするような人間ではない、と断言していた。さらに現場から走り去る怪しい人物がいたのだが、その目撃談はまさに三者三様で、およそ手掛かりにはなりそうになかった。


1940年発表、ベイジル・ウィリングものとしては二作目の長編。
事件の状況はディクスン・カーあたりが書きそうな種類のものだが、とりあえず捜査の焦点はそこには置かれない。こういった謎の扱い方はマクロイならではだな、と思う。しかし、夢遊病や嘘発見機など精神医学の要素と、戦争を有機的に埋め込んだプロットはなかなかに複雑なものであります。

ミステリとしてはとてもオーソドックスなつくりですが、物語が進行するにつれて被害者の生前の行動に非常に疑わしい点が浮かび上がってくるし、さらには新たな事件も起きて、と興味の途切れるところがありません。
書き振りの点でも、次はこいつが被害者になるのかな、と匂わせる呼吸など巧いものだ。また、後半に入って、読み慣れたひとなら疑うであろうが、全く検討されていなかった可能性が、ある人物によって指摘される。このタイミングも絶妙です。

謎解きには後年の作品ほど大量の伏線が盛り込まれているわけではありませんし、犯人が明らかになる瞬間もさらりとしたもの。しかし、心理学的な根拠ばかりで裁判で通用する物証はないだろう、と強がる犯人をベイジル・ウィリングが追い詰める過程は充分読み応えがありますし、ばら撒かれた偽の手掛かりこそが犯罪者を指し示す、というロジックは格好いい。

大きな驚きこそありませんが密度が濃く、フェアなフーダニットでありました。
創元推理文庫では来年「The Long Body」の刊行が予定されていて、これでベイジル・ウィリングものの長編はすべて訳出されることになる模様。あとは短編集のほうもお願いしたいところですが、ちょっと気が早いかな。

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