2022-09-03

エラリイ・クイーン「ダブル・ダブル〔新訳版〕」


「いないんだよ、リーマ。あれは幻想だ。銀をモチーフとした象徴的表現さ。彼女は本来の居場所、つまり書物のなかから直接やってきた。恥を忍んで言うと──ぼくも昔、マルヴィーナみたいな登場人物を書いたことがある」

1950年発表の長編。
『ダブル・ダブル』まで新しい訳で出るとは。この作品、わたしは旧い訳のもので二回くらい読んでいるはずなのだが、そんなに感銘を受けた覚えがない。忘れているだけかもしれないけれど。
中期以降のクイーン作品は半世紀くらい昔に翻訳されて、それっきり誰も手をつけていなかったのだけど、(ディクスン・カーなどとは違い)ひどい訳文のものが放置されていたわけでもないので、改められる必要をあまり感じていなかった、というのも本当のところ。
さて、この作品の読みどころはなんだろう。ライツヴィル・サーガとしてのものだろうか。

いい加減、感性が擦れ切ってしまった今見ると、リーマ・アンダーソンの設定はあざとすぎるように思うのだが、「これはファンタジーの世界のミステリですよ」という宣言のようにも思える。また、事件の主要な関係者がみな揃って形式化された通り名を持つのも、おとぎ話らしさを裏打ちする。あと、ライツヴィルにも押し寄せた近代化の波、その象徴のようなマルヴィーナ・プレンティスの描かれ方はいかにも戯画的だし、他にも、エラリイがリーマにミッションを伝える際には、探偵小説のキャラクターをなぞるように命じているのだ。
作品を後半まで読み進めていくと、こういったフィクション感の念押しはプロット上の要請であることがわかる。

全く手掛かりがない、事故か犯罪かも判断できない状態からエラリイが見出したのは、ある童謡の見立てであった。ただ見立て連続殺人というだけでもファンタスティックなのだが、さらにもうひと捻り。そのねじれ具合がもうクイーンでしかありえなさそうなもので、嬉しくなってくる。ただし、うまくいってはいないのだな。

解決を迎えるときにはもう、キャラクターが作者に都合のいいだけの駒に戻ってしまっている。リアリティは犠牲にされ、犯人の心理にも説得力がない。仮に舞台がライツヴィルでなかったなら、こんなに違和感を持たなかっただろうか。
パズルとしてはどうだろう。クイーン自身の作風をミスリードに使っているふしもないではない。事件のどれが犯罪でどれが事故なのかが決定するまでは、そちらの犯人でも成り立ってしまう。そんなことを考えてしまうのも、ディテクションの作品としては全く物足りないからだ。エラリイが真相に行き当たった道筋は推理によるものとは言い難い。
ただ、犯人が見立てを使った理由はクイーンらしくて、これにはわたしは満足してしまいました。

クイーンの個性が強く出ているようで、わたしは面白く読めたけれど、出来は今一つ。やはりこれはファン向けの作品だと思う(1950年以降の長編は全てそうだけれど)。

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