2012-10-08

エラリー・クイーン「フランス白粉の謎」


しかし――」その言葉は、すさまじい勢いで皆に襲いかかった。「――実はもうひとつの推理も引き出されるのです――ただひとりを除いて、すべての容疑者を一気に除外してしまう推理が・・・」眼に炎が燃え盛った。声からかすれが消えた。エラリーは慎重に身を乗り出し、机の上に散乱する証拠品越しに、彼自身の引力でもって一同の注意をしっかりとひきつけた。「すべての容疑者を――ひとりを除いて」ゆっくりと繰り返した。

国名シリーズ新訳の第二弾です。
もう何度も読んでいる作品なのであるけれど、うん、やはりいいですね。

最初の100ページほどを占める第一部ではまだデビュー作『ローマ帽子の謎』がそうであったように、警察小説としてのフォーマットが守られているようだ。クイーン警視による尋問の様子は事細かに描写されているし、捜査に上役からの横槍が入ったり。
それが第二部に至ると、アマチュア探偵エラリーが友人をワトソン役に立てて、独自に現場を調査する。ここに至って本格ミステリとしての興味が俄然高まってくるし、前作『ローマ帽子の謎』にあったような構成上の単調さが回避されている。『ローマ~』の実質的な主人公がリチャード・クイーン警視であったのに対して、ここからがエラリーが中心となった物語なのだ。

死体の奇怪な出現による発端から次々に事件の主眼が動いていく展開も見所。そうしたプロットの充実が都会的な設定に見事に落とし込まれていると思う。
ロジックには後の作品と比較すると蓋然性に寄りかかったような箇所が目立つのだが、推理そのものによって生み出されるドラマが素晴らしい迫力で、これこそがクイーンの真骨頂だ。

もったいぶった気取りさえ、二十代半ばの作者の手によるものだと考えるとチャーミングに思える。実に洒落ていて、最高に心地の良い手触りにはしかし、僕が好むような読み物は現代では既に死に絶えたものである、ということを思い知らされるようでもある。

次作『オランダ靴の謎』は2013年刊行予定、ということなのだが、ひょっとして年一冊のペースなのだろうか。

2012-09-24

ジェデダイア・ベリー「探偵術マニュアル」


常に雨が降り続ける都市の探偵社、そのベテラン記録員アンウィンはある日突然に、探偵への昇格を命じられる。そして、何かの間違いでは、と上司を訪ねたところで死体を発見してしまう。渡された「探偵術マニュアル」と眠り病の助手を頼りに事態の収拾に努めるうち、アンウィンはいつしか奇怪な陰謀の中に巻き込まれていく。
・・・と書くといかにもミステリっぽい筋立てでありますが、これはファンタジー作品と言ったほうがいいかな。

もういい年のはずなのに少年のような心を持つ主人公アンウィン。不条理感漂う探偵社のルール。夢遊病者が集まるパーティ、カリガリ・サーカス、町中からかき集められた時計。そして伝説の怪事件。
キャラクターたちはそれぞれが裏の顔を持ち、謎めいたセリフを残していく。
どう進むつもりなのか見当がつかない展開には本当、わくわくさせられる。

事件の全容が明らかになっていく後半の雰囲気は、ほのぼのしたフィリップ・K・ディックといった感じで、繰り広げられる奇妙なイメージが魅力的です。

一方で、ミステリとしての筋道がこの作品をしっかりとエンターテイメントの枠内に落とし込むことになっていて。拡げた風呂敷はきっちり畳まれている、というわけ。
博物館の中で開陳されるチェスタトン的なトリックには、思わず頬が緩みました。

ジャンルにこだわらずに面白いものを読みたい、というひとにはいいでしょう。
BGMは10ccの「How Dare You!」というところで。

2012-09-23

ダシール・ハメット「マルタの鷹〔改訳決定版〕」


これも創元・早川両方の版で何度も読んだ古典だ。以前に早川から出ていたのも小鷹信光による翻訳だったのだが、改訳ということで。

どこか悪党めいたところのある探偵二人と、身なりが良く若い女性の依頼人。駆け落ちした妹探し、といういかにも私立探偵小説らしい発端は、程なく血腥く欲望にまみれた展開へとなだれ込んでいく。

「あんた方にも警察にも、いうべきことは何もない。市から給料をもらっている町中のいかれた連中に、あれこれ非難されるのも飽き飽きした。今後おれに会いたければ、逮捕するか召喚状を持ってこい。そうしたら弁護士を連れて会いに来てやる」
サム・スペードが地方検事に言い放つ科白だ。随分と勇ましい。お偉方に対してこんなにも強く出られる私立探偵が実際にいるだろうか。
あるいは結末近くでの大演説。自分の心の揺れを何から何まで説明してしまう。まるでメロドラマだ。

だが、ハメットのようなオリジナルなものに、ジャンル小説としてどうこう、というのは無意味なことかもしれない。
実をいうと作者自身による序文において、スペードはこうありたいと願った理想像である、ということがはっきりと書かれているのだ。

殺された相棒に対して、サム・スペードが実のところどう感じていたのかは読者にはなかなか窺い知れない。今更こんなことを書くのもなんだが、そうした「行動によって語らせる」そのままに、心理描写を排除した文体によって醸される緊張感とリズムが心地良い。

ハードボイルド云々、はいったん頭から退けて、まずはその格好良さにやられて欲しい。
真に力強いミステリだ。

2012-09-17

The Clash / London Calling


僕にとってパンク、というのは他と違うことをやることであって、つまりニューヨークのそれ。みな音楽的には見事にバラバラでありました。対してロンドンパンクというのはつまるところは下手糞なロックンロールのこと。
クラッシュというバンドはアルバムを追うごとに達者になっていき、当然のようにパンクではなくなっていった、なんていうと怒る人はいるだろうな。どうでもいいが。
ドラマーこそが肝だ、とつくづく思う。

「London Calling」は1979年リリースの三枚目。
タイトル曲は今となれば結構、野暮ったく思えるのだが、他は数曲のカバーも含め、みんないい。アナログ二枚組のサイズを弛み無いナンバーで埋め尽くしたという点でこのアルバムは、ストーンズの「Exile On The Main Street」に肩を並べるものなのでは。
アレンジは意外な振り幅の大きさに楽しくなってくるもので、スカやレゲエのような曲調だけでなく、ブラックミュージック色濃いもの、さらにはロカビリーや'60年代ガールポップ風のものまである。そして、そういった雑駁さがキズになっておらず、どれを取ってもクラッシュらしさ、というものが感じられる仕上がりだ。
また、ストレートなロックンロールでもシャープでなおかつ微妙なニュアンスがあって、懐の深さを感じるようになってきている。

ルーツに対する愛情とバンドの持ち味であるソリッドさが見事に結びつき、躍動感が伝わってくるこのアルバム。クラッシュのようなバンドにはふさわしくない言葉かもしれないが、ロックンロールに新たな多義性をもたらしたクラシックだ。
とはいえ、秀逸なカバーデザインはそもそもこの作品がロックンロールを終わらせるべく企てられたことに呼応しているらしいのだが。そう考えるならクラッシュはやはりパンクだったか。


2012-09-16

Billy Preston / Club Meeting


ビリー・プレストンが1967年に出したライブ盤、なのだが。
僕の手元にあるのは前年に出た「The Wildest Organ In Town!」とカップリングされたCDで、これ以外の形態で「Club Meeting」というアルバムは見たことがない。オフィシャルのディスコグラフィーにも「1967 Club Meeting」とは書いてあるのに、ウェブ上でいくら検索してもアナログ時代のジャケットは見つからなかったし、持っているという記事も無かった。言ってもそれなりに名前のあるミュージシャンで、しかもキャピトルから出たものなのだから、たとえばeBayあたりで何かしらヒットしそうなものだろうに。
ただ、この「Club Meeting」に入っている二曲をカップリングしたシングル盤はちゃんと存在するようだ。ひょっとしたらプロモオンリーとかの類のアルバムなのだろうか。

で、このCDなのだけど。ライブが録音された時期や場所も記載されてないというなかなか厄介なものだ。しかし、内容はいいぞ。インストと唄物が混在するR&Bショウで、観客の盛り上がりも相当に熱い。実は黒人婦女子のアイドルだったのかしら、というくらい。
「The Wildest Organ In Town!」では曲のキメのフレーズを叫ぶくらいであったビリーだが、ここでは堂々としたボーカルを聞かせてます。ジェイムズ・ブラウン・メドレーでは鍵盤を離れての唄いっぷりまで。

勿論、オルガンの方も全開で。中でも、スタンダードの "Summertime" ではまずいったん奔放なプレイを見せたあと、「ベートーヴェンならこんな風かな」と言うとクラシカルなフレーズを披露、さらに「レイ・チャールズが演ってるのを想像してみて」と言うやホーンセクションを従えた熱演。

謎のコーラスグループがまるまる一曲唄うものなんかもあって、全体としてはとっちらかった内容なんですが、それも含めて'60年代的な熱気がパッケージされたライブ盤だと思います。
後にアップルからの「Encouraging Words」にも収録されることになる "Let The Music Play" は、ここでのヴァージョンの方が数段格好良いですぜ。

2012-09-11

倉阪鬼一郎「不可能楽園〈蒼色館〉」


倉阪鬼一郎による年に一度、恒例のバカミス。
今回は鉄壁のアリバイ+誘拐劇+衆人監視下の消失、といったところであって、例によって凄いっちゃあ凄い密度です。

アリバイトリックは複合技を使っているせいか、例年に比べると破壊力がおとなしめではありますが、脱力感は充分。
また、それに絡めてある錯誤が仕掛けられていて。読んでいても違和感というより、明らかにおかしいだろうというレベルのものなんですが、真相の馬鹿馬鹿しさはこちらも負けず、なおかつ古き良き新本格テイストも感じられる絶妙の効き方をしています。
勿論、丁寧に張り巡らされた伏線は笑いを誘わずにはおきません。

事件の謎が解かれてから以降、終盤の怒涛の展開は、まあ、毎回似たようなものなんですけれど。予想だにしないが特に驚きもない、という。ただ、今作ではその部分がややあっさり目であって、その分、小説としてのまとまりが良いように思います。
いや、むしろこの綺麗な閉じ方に、ある種のミステリの終着点を感じる、なんて言い過ぎかしら。

そうだ、帯の文章は先に読まない方がいいかも。

2012-09-09

アガサ・クリスティー「ABC殺人事件」


「エルキュール・ポアロ氏へ
あんたは頭が鈍いわれらが英国警察の手にあまる事件を解決してきたと自惚れているのではないかね。お利口さんのポアロ氏、あんたがどこまで利口になれるかみてみようじゃないか。たぶん、この難問(ナッツ)は、固すぎて割れないことがわかるだろう。今月二十一日のアンドーヴァーに注意することだ。」

ポアロの元に届いた手紙、それが連続殺人事件の始まりだった。アルファベットの順に選ばれる被害者、必ず現場に残されるABC鉄道案内。送りつけられる殺人予告状を前にしても、未然に犯罪を防ぐ手だては無いようだった。


1936年発表で、クリスティの代表作のひとつでしょう。ミッシング・リンク&シリアルキラーものの古典であり、女史の作品としてはかなり派手というか扇情的な道具立てであります。
犯人はおろか次の被害者の手掛かりのないままに、殺人が繰り返される。そのため、途中までは謎説き小説というよりはノンストップのサスペンスノベルとしての色が濃い。
そして、ヘイスティングズによる一人称の語りの間に謎の人物を描いた三人称が挿入される、という構成もいかにもこの手の作品の先駆らしいが、それはミステリとしての必然性があるものだ。

この作品で描かれている極めて人工的な犯罪は、批判にさらされることも多いですが、作者自身もそこは自覚しているようで、周辺を補強するようなさりげない辻褄にも配慮されています。
アイディアの貧困を人間ドラマで糊塗しようとする作品など、そもそもミステリではないだろう。そう思っている僕のような人間には、貪欲なまでの騙しの姿勢こそが嬉しいし、細かいミスリードも例によって効いている。
何より、この分量でこの内容というのが凄いではないか。
再読ですが、面白かった。