2024-10-06
エラリー・クイーン「Zの悲劇【新訳版】」
2年ぶりとなる創元推理文庫からのクイーン新訳はドルリー・レーンものの第三作であります。角川文庫版が出てからは13年ですな。
前年(1932年)に発表された『Xの悲劇』、『Yの悲劇』が芝居がかった道具立てのなかで繰り広げられる絢爛としたパズルであったのに対して、今作では冤罪を晴らす、というのがお話の中心であるせいか、ドラマの構築に重心がかかっているような印象を受けます。
プロットの重苦しさを緩和するように若く活発な女性の一人称でこの作品は語られます。レーン自身が事件に関係し始めるのは物語の中盤あたりであって、その分、シリーズの前二作と比べると推理の密度が落ちる感は否めません。
レーンが捜査に参加してすぐ、冤罪であることは明らかにされます。ただし、証拠はない。他ならぬレーン自身のミスによって、それを証明する手立ても無効化してしまう。作品世界内では前作『Yの悲劇』から10年が経過していて、さすがのレーンも衰えたか、そう以前は思っていたのですが、今は考えが少し変わってきました。そう単純ではないかも、と。
第一作の『Xの悲劇』の時点で既にレーンの事件への関与・影響が始まっていたことを考えると、故意という可能性も捨てきれない。レーンと作者クイーンが共犯関係にあって、レーンが事態に働きかけることで作品が成立しているわけで。麻耶雄嵩みたいですけど。
クライマックスの消去法による推理には、厳密に言えば穴がないわけではない。けれど、それを指摘するのは小説に一度も出てこない人物を容疑者にするようなもので、個人的にはさほど気にならない。とんでもない迫力をもつ推理で押し切ってくれる。
しかし、この結末はどうだろう。本来は冤罪から老人を救うことが目的であって、フーダニットとしての解決はあくまでその手段であったはずなのに。見事に手段と目的が顛倒していて、それが素晴らしい。
誰も救わなかったようにみえる解決、だが満足した人物がひとりいるのではないか。
ところで、今回読んでいて初めて疑問をもった箇所があって。第一章の終わりから二番目の段落でペイシェンスが、一日早くリーズに出発してフォーセット医師に会っていたら「のちになってあれほど悩まされた謎も、あっさり解けていただろうに」と言っているのだが、これはどの謎を指しているのだろう?
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