2024-10-26
ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ「止まった時計」
昨年に短編集が出たのに続き、国書刊行会から全三巻の「ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ・コレクション」が年一冊の予定で出されるそうで、これはその第一弾。
1958年に発表された、ロジャーズ最後の長編です。
物語の冒頭で既に事件は起こっている。元女優、ニーナは自宅で何者かに襲われて瀕死の状態にある。そして、そこに至るまでの出来事が多視点より語られる。
ニーナは何度も結婚を繰り返しており、その相手たちとの出会いと別れ、彼ら自身の現在の生活と妄執が明らかになっていく。元の夫たちはみな、かつて社会的に高い層に属していたのだが、凋落を経て今では日々の金繰りにも汲々としているようだ。
本作でも同作者の『赤い右手』と同じように、改行しただけで時系列が飛躍する語りが採用されている。事実なのか想像なのか判別しづらいエピソードが堆積していくうちに、話の流れはつかめてくる。
ただ、『赤い右手』は長編としてはコンパクトであったのに対し、本書はハードカバーで400ページ強の分量がある。その前半は登場人物たちの波乱に満ちた来歴が主であって、ミステリを読んでいるという感じが希薄なのだ。独特の叙述もあって正直、疲れてくる。
しかし中盤あたりから、物語は異様な展開を始める。細部にまで因果性を求めるミステリの作劇からは外れ、ちょっとなさそうな偶然の連鎖が、むしろ必然のように立ち現れる。登場人物たちはそれぞれの役割を果たすよう見えざる手によって導かれ、一気にドラマが動き出す。
そうした末、いきなりのタイミングで明らかになる真相。伏線の数々が一気に回収され、一見、無駄な描写と思われた細部にも意味があったことがわかるのだ。この辺り、ちゃんとしすぎていて逆に驚いた。
さらに終盤に近付くにつれ、作品内の時間の流れる早さまでが奇妙なものになっていく。あたかも求められる結末を実現するために。
なんだか凄い作品であります。プロット上、不必要に見える部分は残るし、とても自分勝手な理屈に基づいて書かれたように思える。ミステリには「狂人の論理」を扱ったものがあるけれど、ここでは作者のロジックが奇妙なのだ。
だからこそ、面白かった。
2024-10-06
エラリー・クイーン「Zの悲劇【新訳版】」
2年ぶりとなる創元推理文庫からのクイーン新訳はドルリー・レーンものの第三作であります。角川文庫版が出てからは13年ですな。
前年(1932年)に発表された『Xの悲劇』、『Yの悲劇』が芝居がかった道具立てのなかで繰り広げられる絢爛としたパズルであったのに対して、今作では冤罪を晴らす、というのがお話の中心であるせいか、ドラマの構築に重心がかかっているような印象を受けます。
プロットの重苦しさを緩和するように若く活発な女性の一人称でこの作品は語られます。レーン自身が事件に関係し始めるのは物語の中盤あたりであって、その分、シリーズの前二作と比べると推理の密度が落ちる感は否めません。
レーンが捜査に参加してすぐ、冤罪であることは明らかにされます。ただし、証拠はない。他ならぬレーン自身のミスによって、それを証明する手立ても無効化してしまう。作品世界内では前作『Yの悲劇』から10年が経過していて、さすがのレーンも衰えたか、そう以前は思っていたのですが、今は考えが少し変わってきました。そう単純ではないかも、と。
第一作の『Xの悲劇』の時点で既にレーンの事件への関与・影響が始まっていたことを考えると、故意という可能性も捨てきれない。レーンと作者クイーンが共犯関係にあって、レーンが事態に働きかけることで作品が成立しているわけで。麻耶雄嵩みたいですけど。
クライマックスの消去法による推理には、厳密に言えば穴がないわけではない。けれど、それを指摘するのは小説に一度も出てこない人物を容疑者にするようなもので、個人的にはさほど気にならない。とんでもない迫力をもつ推理で押し切ってくれる。
しかし、この結末はどうだろう。本来は冤罪から老人を救うことが目的であって、フーダニットとしての解決はあくまでその手段であったはずなのに。見事に手段と目的が顛倒していて、それが素晴らしい。
誰も救わなかったようにみえる解決、だが満足した人物がひとりいるのではないか。
ところで、今回読んでいて初めて疑問をもった箇所があって。第一章の終わりから二番目の段落でペイシェンスが、一日早くリーズに出発してフォーセット医師に会っていたら「のちになってあれほど悩まされた謎も、あっさり解けていただろうに」と言っているのだが、これはどの謎を指しているのだろう?
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