2013-03-25

E・C・R・ロラック「悪魔と警視庁」


ロンドン警視庁に戻る途中、主席警部マクドナルドはひったくり犯を捕らえようとして、深い霧の中で車を降りる。あいにく犯人は逃したものの、品物は取り返すことができた。だが、翌日になって警視庁の敷地内に停めたままにしておいたマクドナルドの車の後部座席から、メフィストフェレスの仮装をした男の死体が。

1938年発表であって、むしろポスト黄金期の作品ではないかな、これは。道具立てはいかにも古典チックなものだけれど展開は捜査小説風でテンポ良く、読みやすい。ただ、謎によって生み出されたケレンが徐々に萎んでいくようなところは設計ミスでしょうか。
文章には乱暴というか、なんだかフランスミステリや我が国の新本格みたいなところがあります。

純粋に謎解きとして見ると、良い所もあるんだけれど、という感じ。これは巧いな、と唸らされる仕掛けがある一方で、ロジックは結構緩め。プロットの複雑さがまんま解決の複雑さになっている感も否めません。

粗は挙げましたけど個人的には充分楽しめました。分量は300ページ足らずでありますが密度が高く、読み応えはありますね。
創元推理文庫からは続いて、戦前の代表作のひとつ『鐘楼の蝙蝠』が刊行予定ということなので、とりあえず出たら読もうとは思っています。

2013-03-20

アガサ・クリスティー「死との約束」


1938年発表、中東を舞台にしたエルキュール・ポアロもの。この頃、米国ではエラリー・クイーンもハリウッドものを出していて、英米でともに謎解き中心の物語をそれまでとは違う背景に組み込むような試みがなされていたんですなあ。

二部構成になっていて、第一部では強烈な支配欲を持つ未亡人と、内心は彼女を憎みながらも恐怖によって従順にならざるを得ないその子供たちが描かれ、一家での旅行先において殺意が育っていきます。そしてとうとう事件が起こる。
登場人物たちの精神のありかたを心理学者が解説するシーンが盛り込まれているのだけれど、時代でしょうか。今読むといささか型どおりな感は否めませんが。

第二部になって、現地の責任者の要望によりポアロが出馬します。過去のある作品を思わせる状況――皆が犯人が誰かを知っており、なおかつそれをかばっている――のようである。そして、ポアロは一日で事件を解決してみせる、と宣言する。

異国を舞台にしていることを除くと、夾雑物を配したフーダニットとして恐ろしく良く出来ていて、出来過ぎてかえって面白みがないかも。ポアロは関係者たちに聴取をしただけで、あまり悩むことも無く事件の解決に至ってしまうのだから。
盲点を射抜くような真相は計画犯罪としては危なっかしいが、こうでしか説明がつかないというもの。ちょっとした伏線が心憎い。わかっていても引っ掛かるミスリードもいつも通りで、オーソドックスなクリスティ流、それが生なかたちで提出されているようである。

ミステリとしての結構は同じ中東ものの『メソポタミヤの殺人』『ナイルに死す』よりいいと思いますが、第二部では殆ど異国という雰囲気を感じさせませんし、小説としていささかあっさりですかね。クリスティとしては水準作というところ。

2013-03-18

松本寛大「妖精の墓標」


松本寛大、四年ぶりになる二作目。デビュー作『玻璃の家』を読んだときには「このスタイルだと量産は効かないだろう」と書いたのだけれど、本当にそのようだ。

前作はアメリカを舞台にしたモダンなミステリであったのに対して、今作の帯には「横溝ミステリーへの、超新星からの挑戦!」と書かれていて、ちょっと意外な感じを受けました。実際、地方の旧家における連続事件を取り扱っているのだから、それっぽい。
もっとも探偵役は引き続き、ボストンに住む心理学者のトーマ・セラで、妖精の幻覚を見る、という現象を脳医学から解いていく要素がひとつの柱をとしてあるわけで、ここは前作同様、島田先生いうところの「21世紀本格」ですな。

ノベルズで300ページほどの分量の中に本当にいろんな要素が詰め込まれていて、風呂敷を拡げている間の期待感は結構なもの。途中、これは空中分解するんじゃないの、と思いましたが、最後にはちゃんと有機的に絡み合うひとつのものとして収束させたのは本当、大したものです。ただ、奇想の光景を解き明かす「21世紀本格」とオーソドックスなミステリとしての部分の親和がもうひとつ、という感じは受けました。
また、トーマの推理は面白いのだけれど飛躍も多く、個人的には納得するのが難しいところも。伏線はあっても手掛かりには乏しいのだ。特に、登場人物の心理における説得力が弱く感じました。おかげで、明らかにされる構図は意外なものなのにさほど驚けなかった。
意欲は買うけれど、先生張りの豪腕を使うには早いんじゃない、という。

あれもこれも欲張りすぎてかえって読後感が薄くなったきらいがあります。じっくり書き込めば凄いものになったかもしれないけれど、惜しいな。

2013-03-15

Donald Byrd / A New Perspective


1963年、牧師の息子・ドナルド・バードによる、ジャズにゴスペルの要素を大胆に取り入れた意欲作、ということなのだが。
制作背景や時代的なコンテキストから切り離して演奏に接してみると、これはクール目のソウルジャズ。デューク・ピアスンによるアレンジの元、バードをはじめハービー・ハンコックやケニー・バレル、ハンク・モブレイらがごく淡々とプレイしている、ように聴こえる。とくにハンコックのピアノが良いかな。

やはり音楽をユニークなものにしている男女8人からなる太いコーラスの存在。もっとも、少しラフではあるけれど、スキャットのフレージングは普通のジャズコーラスにおけるそれに近いもので。実際、メンバーは普段教会で歌っているひとたちではなく、音楽学校の生徒から多く選抜されていたそうである。
崇高さよりメランコリックさが勝ったような印象の歌声は、ときに昭和映画の挿入歌を思わせるようなフックを生み出しており、結果としてコマーシャルというのとは違う意味での大衆性を獲得することになっているように思う。

これらジャズのイディオムで再構築されたゴスペルは、物静かな都会の黒人たちに向けて鳴らされたのであろうか。新しい時代のための、歌詞の無いソウル・ミュージック。

2013-03-04

フィリップ・K・ディック「空間亀裂」


1966年発表、原題は "THE CRACK IN SPACE"。クラックはダブルミーニングなのかと思ったけれど、そうでもなさそう。

中期ディックらしく、新奇なアイディアが次々に現れる。また、300ページちょいの話に30人ほどのキャラクターが登場。プロットの進行も乱暴と思えるほどに早すぎて、長編一本分の展開が物語の中ほどにくるまでに消費されてしまう。その分、深みとかはまるっきり無い。薄っぺら。

小説として破綻しているとか、途中で放ったらかしになるエピソード、なんてことを気にしていてはディックの作品は読んでられない。そもそもこの作家にとって現実というのがそういうものであったのだから。
ただ、この作品については元々が短編を引き伸ばしたものらしく、つぎはぎ感があからさまであって、整合性が弱い。危機はご都合主義の多用によって回避され、とってつけたような結末に至っては作中で、なぜこんなふうになったのかはわからないが、と断わられているほど。

面白くないわけではない。感動とか衝撃、あるいは斬新さなんてものとは無縁なだけである。
読んでいる最中はどこに中心となるテーマがあるのかがさっぱり見当がつかないし、予定調和からこれほどかけ離れた作品もそうないだろう。
脂の乗った時期のフィリップ・K・ディック、そのやっつけ作。

2013-02-25

S・S・ヴァン・ダイン「ベンスン殺人事件」


「ぼくのズボンがクリーニング屋に出してあるからといって、ぼくがクリーニング屋にいたってことになるかい?」

遂に出ました新訳ヴァン・ダイン、といっても実はヴァン・ダインは『僧正殺人事件』しか読んだことがないのだ。僕がミステリを読み始めた時分には既に、代表的な作品を除いては過去の遺物のような扱いだったのです。『グリーン家殺人事件』についてもある国内作家の作品や書評の中で犯人の名前をはっきり書いているものを目にしていたため、すっかり読む気が削がれてしまいました。
けれども一方でその作風が、初期のエラリー・クイーンや戦前における我が国の探偵作家たちに大きな影響を与えたらしい、という評判も目にしていたわけであって。新訳で出るなら読んでみよう、と思っていたのです。
で、どうだったかというと・・・。

警察による現場検証をしっかり書き込むところなど、なるほどこれはクイーンが踏襲したのだろうなあ、と。読み物としてもセンスが都会的であって、ちょっと洒落たユーモアが感じられます。この作品について言われた、一夜にしてアメリカの探偵小説を大人に、云々も肯ける。

純粋に謎解きとしてはどうかというと、現在の目からは厳しいというのが正直なところです。事件そのものは何の変哲も無いようなものであって、その解き方が肝心なわけなのだけれど、斬新なコンセプトを徹底し切れていない上、恣意的なところが目立ちます。
一方で、多重解決めいた趣向などは面白いですし、1926年の作品ということを考えれば凄い、ということになるのでしょうが。

大上段からかまされるはったりなど、いかにも古典らしく、そういった雰囲気はたまらないので、次作の『カナリア殺人事件』も新訳が出たら読むとは思います。
が、若い人にはお勧めしませんね。

2013-02-22

Terry Callier / What Color Is Love


テリー・キャリアー、カデットからの二枚目、1973年。プロデュースは前作「Occasional Rain」に引き続きチャールズ・ステップニーが担当。

非ソウル的な音作りという点では共通しているものの、「Occasional Rain」では小編成での演奏であり、時に実験的なアレンジが試みられていたのに対して、今作ではアコースティック・ギターの響きは残しながらも管弦がふんだんに取り入れられ、ドラマティックな作りに。展開が豊かになり、映画音楽を思わせる瞬間もあります。アルバム最後の曲は女性コーラスが入るものの、インストでありますし。

実際、普通のポップスファンがこのアルバムの多くの曲から連想するのはバート・バカラックやジム・ウェッブではないだろうか。特にタイトルになっている "What Color Is Love" やキャッチーな "Just As Long As We're In Love" のアレンジはとてもバカラック的であるし、この二曲やカントリー的な甘さを含んだ "I'd Rather Be With You" などはB.J.トーマスが歌ってもおかしくないのでは。
もっとも、そういったポップソングだけでなく、ペースを変えるようにファンキーなベースが効いた "You Goin' Miss Your Candyman" も格好良く決まっています。

全てテリー・キャリアー自身の手になる楽曲はますますメロディに磨きがかかり、ヴォーカルは前作同様に熱がこもっていながらも、よりストレートでくどさが気にならないものになっています。

と、いうわけでソウルのプロパーなリスナーには結構好みが分かれそうでありますが、ジャンルなんてどうでもいいわ、というひとなら黒人音楽版「A Tramp Shining」としてお勧めしたいな、と。