2018-03-19

ロス・マクドナルド「象牙色の嘲笑〔新訳版〕」


1952年の長編、新訳版で再読。二年前に買ってはいたのだが、ずっと放置していました。
はたちくらいのころに一番入れ込んでいた作家がマクドナルドとフィリップ・K・ディックなのだけれどね。歳を取ってからは辛気臭いものはあまり読みたくなくなってしまったのだ。

この『象牙色の嘲笑』はリュー・アーチャーものとしては4番目の長編で、シリーズとしては初期のものとなります。アーチャーがまだまだ若く、感情をはっきり示していて、後の観察者でも紙のように薄い存在でもありません。立場の弱いものには肩入れし、警官に対して反抗的な口をきいたり、自分につかみかかってきた若者を軽くあしらってみせたりします。あと、ちょっとモテたりもする。
筋立てのほうは胡散臭い依頼者からの人探しがやがて殺人事件に結びついて、というもので、捜査が進むにつれて事件の規模が広がり複雑さを増していく。

後ろ暗いものを抱えた人々によるそれぞれの思惑が絡み合った事件。それが、ある瞬間にひとりの人物の行為に収束していく真相はミステリとして素晴らしくかたちがいい。また、一度捨てた可能性が再び浮かび上がってくる仕掛けと、それを成立させるためのキャラクター造りがとてもうまい。

チャンドラーの影響はまだ明らかであって、マクドナルドならではの個性はそれほど感じられないものの、複雑なプロット構成のうまさは既に完成の域にあると思いましたよ。

2018-03-17

Wynder K. Frog / Shook, Shimmy And Shake: The Complete Recordings 1966-1970


オルガン・インスト・コンボ、ワインダー・K・フロッグがアイランド・レコードに残した音源集3CD、英rpmからのリリース。
三枚のアルバムのうちファーストとサードは素性の怪しいところからリイシューされていましたが、オフィシャルなかたちで初めてのCD化となります。さらにシングル曲、宣伝用ソノシートからの曲、BBCセッション、そして未発表アルバムの曲まで入った大盤振る舞いのセットです。
なお、ワインダー・K・フロッグというのは元々バンド名だったわけですが、それがいつのまにか鍵盤奏者、ミック・ウィーヴァーの芸名になっていったそうであります。



「Sunshine Super Frog」(1966年)はウィーヴァーがセッション・ミュージシャンたちと共に制作したファースト・アルバム。
スリーヴノーツにはプロデューサーがジミー・ミラーで、いくつかの曲ではニューヨークで制作したバッキングトラックにロンドンでオルガンをオーヴァーダブした、と書かれていました。ところが、盤自体にはアイランド・レーベルのボス、クリス・ブラックウェルがプロデューサーだと表記されていたのです。今回のライナーノーツを読むと実際にはブラックウェル、ミラー、そして当時レーベルのアレンジャーであったシド・デイルがそれぞれに制作したものより構成されているそう(ミック・ウィーヴァーによれば、レコーディングにはジョン・ポール・ジョーンズが参加していたとのこと)。そのためか(基本線はブッカーT&MG'sあたりだとは思うのですが)ソウル色の強いもの、当時のヒットソングのカヴァー、ストリングス入りのムーディな曲が混在。いずれもウィーヴァーのハモンドはご機嫌なものの、一枚のアルバムとしてはややまとまりには欠ける印象です。
また、マテリアルとしては当時のアイランドらしくジャッキー・エドワーズの曲が3曲取り上げられていて、そのうちひとつはスペンサー・デイヴィス・グループがヒットさせた "Somebody Help Me" であります(さらに翌年にはシングルで "I'm A Man" もリリースしています)。



ファースト・アルバムのしばらく後にウィーヴァーはグループの他のメンバーと袂を分かつことになります。そして、以後のライヴを共にしてきたプレイヤーたちとともに作られたのがセカンド「Out Of The Flying Pan」(1968年)で、こちらはガス・ダッジョンがプロデュース。サウンドの感触がぐっとシャープで、タイトなものになっています。
全体にファンキーな要素を強めつつジャジーな要素も加わって、モホークスあたりと張り合っても遜色のない格好良さ。いかにもモッズ受けしそうなダンスナンバーが多くて、三枚のアルバムのうちでは一番好みですね。楽曲は引き続きカヴァーが中心ですが、ウィーヴァー自身による2曲のオリジナルにおける洗練はなかなかのもの。また、このアルバムでは鍵盤は勿論いいですが、いくつか実にセンス良いギターも聴くこともできます。



「Out Of~」リリース後、しばらくは活動が順調にいっていたのですが、メンバーたちに他のところから大きな仕事の声がかかり、ミック・ウィーヴァー自身も他所のバンドに参加することで、グループとしてのワインダー・K・フロッグの活動は停止。ウィーヴァーはもう自分のグループを率いていくことに興味が無くなってしまいます。
それでも三枚目にして最後のアルバムが1969年に制作され、翌年に「Into The Fire」として米国のみで発売されました(「out of the frying pan, into the fire」というイディオムで「一難去ってまた一難」の意だそう)。楽曲のほうはオリジナルが多くを占めるようになっているのですが、純然たるジャズファンク、鍵盤が入っておらずブルースハープが主役のもの、南部ソウル色濃いボーカル入りのスロウ、まるっきりジミー・マグリフのような渋いオルガンジャズなど多様なものがあって、もう商売抜きでモッズ的な趣味を突き詰めたというところでしょうか。一方では、ラフなギターが入っているのも特徴であって、これまでになくロックバンド的なテイストも感じられる瞬間も。


さて、今回のリリースには'68年、「Out Of The Frying Pan」より前に制作されながらも、これまで未発表であったアルバムが収録されております。ソースはアセテート起しだそうですが、充分に聴ける音にはなっています。
プロデュースはマフ・ウィンウッドで、管楽器があまり使われておらずソウルっぽい装飾は控えめ。バンドらしいというか比較的エッジの効いたサウンドで、当時のクラブでのライヴはこんな感じだったのかな、と思わせる熱のこもった演奏です。また、いくつかの曲でのひとつのリフを執拗に繰り返すような展開は、後々のファンク化への方向性を感じさせるもの。
「Out Of~」との収録曲のダブりは二曲だけであって、ひとつの独立した作品としてもそこそこ良いのではないかしら。


流行に対応しながらも一環してセンスの良さが感じられる、ハモンド好きには堪えられない3枚組でありますね。

2018-03-03

クリスチアナ・ブランド「切られた首」


「いやはや、そんなものを冠って、溝にはまって野垂れ死しているところなぞ見られたくないものだわ!」
数時間後、彼女はその趣味の悪さに毒づいていた帽子を被せられ、溝の中で死んでいるのが見つかった。また、その頭部は一度切り離された後に、首の上に転がされていたのだった。


ときどき読み返したくなるブランド。『切られた首』は1941年に発表された第二長編で、シリーズ・キャラクターであるコックリル警部の初登場作であります。
同じ年に発表された前作『ハイヒールの死』が都会で働く女性たちの間で起こった事件を扱っていたのに対し、こちら『切られた首』は田園地帯を舞台にした作品。コックリルはこの時点ではまだケントの鬼と呼ばれるような評判もなく、地域に定着したいち警察官といった存在です。

事件のほうはタイトル通り、首を切り落とされた惨殺体が発見される、という派手なもの。ミステリの中心はアリバイの問題なのだけれど、不可能興味もあって、それらを搦めて扱っているといます。さらには死体の状況を巡る「何故犯人はそうしたのか」という謎も考えると結構に密度は高い。
読み物としても『ハイヒールの死』は冗長さが感じられたのに対して、こちらはきびきびと展開します。会話の端々からの細かな手掛かりを出す手際は堂に入ったものだし、疑惑を掻き立てる思わせぶりな描写もまた巧いこと。
また、容疑者が一転二転する展開からは、後年の多重解決には及ばないものの推理の興趣は充分に感じ取れます。

クライマックスでは関係者一同を集めてコックリルが推理を開陳。ところが、いいところになって反論が出る。コックリルがないがしろにされるのもまた、このシリーズらしさであるか。
ただ、メインになっているアイディアは面白いけれど、意外性の効果はいまいちあがっていないように思う。誤導も伏線の出し方も控えめ過ぎる気がして、真相を知ってやられた! という感じは薄かったな。
また、動機の処理が随分あっさりしたものであるのにも気になりました。

読み物としては『ハイヒールの死』より格段にこなれているし、ブランドらしさは随所に感じられるけれど、切れの良さではまだまだといったところでしょうか。

2018-02-25

Sven Libaek / The Set


1970年のオーストラリア産映画、そのサウンドトラック。

オープナーでありアルバム中、唯一のボーカル曲 "Start Growing Up Now" が素晴らしい。ワルター・ライム・コンセプトを若々しくしたような、美麗さと疾走感のブレンドがとても心地良い。ドラムのサイドスティックも効いています。このアルバムの魅力のうち8割はこの曲じゃないかと。
あとはジャズを基調にした軽快なインストが中心。メロディの美しいものばかりなのだが、ヴァイブやフルートなどを生かした穏やかなサウンドのものが多いので、やや単調さを感じるかも。ボサノヴァ風のアレンジや、ド・ルーベを思わせるような密室的なものなど、ひとつひとつ取ってみるとどれも良く作られています。

リイシューのボーナストラックでは、シングル・オンリーであったタイトル曲のボーカル・ヴァージョンが収録されている。これもまた、いいのです。ジャズのイディオムを生かしたサンシャイン・ポップというのは、巧く決まったときにはキャッチーであってもあざとさを感じさせないものなのだなあ。

2018-02-17

Mott The Hoople / All The Young Dudes


1972年リリース、プロデュースド・バイ・デヴィッド・ボウイ。

モット・ザ・フープルで個人的なベストはというと、やはりこれになる。いかにも英国らしい陰影や重心の低さ、ストーンズを思わせるようなルーズな中での性急さがなんとも格好いい。中域が太いリードギターの音も好みだ。
この後のアルバム「Mott」や「The Hoople」にも好きな曲はたくさんある。むしろ曲そのものの出来の良さ、アイディアの多彩さは、それらの方が増していると思う。しかし、全体にサウンドが軽く、そこに下世話なアレンジが組み合わさった瞬間にはどうも居心地が悪く感じてしまう。また、セルフ・プロデュースになったことで、イアン・ハンターの大上段に振りかぶったような情緒臭さがフィルター無しに出てしまっているようなところもある。もっとも、"All The Way From Memphis" などは昇華された自意識と古臭いフレーズの綱引きこそが肝ではあるのだけれど。

アルバム「All The Young Dudes」で、というか彼らの曲で一番好きなのはというと、やはりタイトル曲になってしまう。冷静に聴けばこの曲のサウンドはジギー期のボウイそのまんまだ。しかし、それを全部、持っていってしまえているのもまた、イアン・ハンターの臭さではあるよね。

2018-02-11

C・デイリー・キング「タラント氏の事件簿〔完全版〕」


〈クイーンの定員〉にも選ばれた1935年の短編集に、後年に発表された4作品を増補した完全版だそう。
探偵役トレヴィス・タラントは裕福なディレッタントという趣の紳士。執事のカトーは、本業は医者だがスパイとして米国にもぐりこんでいるという設定。お気楽なスリラーのようでそそられるけれど、作品そのもののユーモア味はさほどでもない。
ミステリとしては強力な不可能・不可解な謎が興味を引かれるものとなっています。一方で、犯人の意外性には殆ど配慮がありません。

「古写本の呪い」 密室からの消失を扱ったもの。トリックそのものはどさくさ紛れのようなものだが、プレゼンテーションが良く出来ている。また、タラントの初登場場面は不遜な感じがして格好良かった(しかし、その後には普通の紳士になってしまうのがやや残念)。
「現れる幽霊」 怪現象が起こる呪われた家。これもトリックそのものは古めかしいが、背景への溶け込みがとてもいい。
「釘と鎮魂曲」 密室での殺人と、更なる犯罪。なかなか大掛かりなトリックと、奇妙な手掛かりの数々が面白い。
「〈第四の拷問〉」 とびきりの怪現象はシャーロック・ホームズ譚にもあったようなアイディアだが、メアリ・セレスト号の謎を絡めた導入がうまい具合にはまっています。
「首無しの恐怖」 監視状態のハイウェイ上にどこからともなく現れる首無し死体、なんて相当面白くなりそうなのだが。オカルト要素を事件に有機的に絡ませることで、読後感が印象的なものとなった一方で、物語の焦点がぼやけてしまったという気も。
「消えた竪琴」 密室内で繰り返される消失と再出現には後のエドワード・ホックを思わせるテイストがあります。手掛かりは盲点を突いたごくシンプルなもので、叙述にも工夫が見られる。それだけに真相が見え見えなのが残念。
「三つ目が通る」 ミステリとしては大したことがない。連作短編集のラストひとつ前としてはそれなりに意味があるのかしら。
「最後の取引」 人知を超えた力を扱ったもので、ミステリではない。シリーズの幕引きとしてはなるほど、といった感じで。この時代には進んだものであったのだろうな。

今回の文庫で追加された4編は1944年以降と、だいぶ後になってから発表されたもの。うち、「危険なタリスマン」は「最後の取引」の後日譚でもあり、超科学的なテーマを取り扱っていて、ミステリとしての興趣は薄い。それ以外の3作では、まだ不可能犯罪に取り組んでいるのが嬉しいところ。ただ、アクが抜けた分、粗が目立ってしまうな。

ともかく、個性的であり、不可能興味に軽めのケレン、判りやすい解決が楽しいミステリ短編集です。

2018-01-31

鮎川哲也「黒い白鳥」


1959年に雑誌連載され、翌年に単行本化された長編。

とても丁寧に書かれたミステリで。手掛かりひとつひとつの発見の経緯を省略せず、短いエピソードのなかで語ることで、それぞれが印象に残るものとなっています。また、登場人物たちの感情的なやりとりが、決してくどくならない範囲で描かれているのも節度が感じられて好ましい。

前半はフーダニットとしての興味も残しながら展開。捜査そのものは地道な聞き込みが中心なものの、証拠の発見や新たな事件の発生がテンポよく描かれ、滞りなく読み進めていけます。
物語の中盤に至り、有力な容疑者たちへの線が全て詰んでしまったところでようやく鬼貫警部が登場。疑問点をピックアップして、周辺を徹底的に洗い直す。前半に出てきた場面にもう一度立ち返るのですが、そのところどころで鬼貫はひっかかるものを感じるわけです。
そして、細い糸を手繰っていくような捜査行の果てに、新たな犯行動機が浮かび上がってくる。この部分のドラマ作りが、わかってはいても巧いなあ。で、いよいよそこに鉄壁のアリバイが立ちふさがる、というわけ。

鉄道を使ったトリックがふたつ使われていますが、それぞれ色合いの大きく異なるものであるのが良いですね。また、さらに補強として使われている錯誤を誘うトリック、これが凄く効果的で唸りました。全体を振り返って見るとかなり複雑な犯罪だったことがわかります。
リアリスティックな警察小説でありながら相当にトリッキーなミステリというのは、バランスが難しいと思うのですよ。下手をするとミスマッチになり、物語から浮いてしまう。そこに説得力を持たせているのが周到な伏線の数々でありますね。

結末で鬼貫によって明かされる手掛かりは、そこだけが物語の異なるレイヤーに属していて、なおかつイメージを喚起させられるもので、驚きを覚えました。