2023-03-06
ミシェル・エルベール&ウジェーヌ・ヴィル「禁じられた館」
会社社長のヴェルディナージュは郊外にある広壮な屋敷を購入することにした。だが、その契約書にサインする直前、何者かによる脅迫状が届けられる。
「命が惜しかったら、マルシュノワール館から直ちに立ち去り、二度と戻ってくるな」
ただの悪ふざけだ、と笑い飛ばしたヴェルディナージュ。しかし屋敷に住み始めた一か月後、鍵の施錠された扉の内側で、二通目の脅迫状が発見されるのだった。
1932年にフランスで出た長編。屋敷に入るのを目撃された人物が殺人事件の直後、その姿を消してしまうという、バリバリの不可能犯罪ものです。
事件の舞台となるマルシュノワール館はいわくつきで、これを建設させた銀行家は獄中で死亡、そして代々、そこに住もうとする者のもとには脅迫状が舞い込んできた、と。最初の買い手はこれを無視し続けた末に射殺死体で発見され、それ以後の所有者たちは脅迫状が届くと、みな館から逃げ出してしまった。
面白いのはこの屋敷が建てられてまだ5年しか経っていないことだろう。不可能犯罪は起こるけれど、中世の亡霊や怨念がどうとかいう話ではない。実際に生きている誰かが悪意を向けてきている、ということはずっと明確だ。この辺りの人工性の強さは(キャラクターの口調の強さとともに)フランス・ミステリらしさではあるか。
殺人事件を担当するにあたった警官、検事代理、予審判事それぞれが独自の推理をもって異なる人物を犯人もしくは共犯者と目するに至る。しかし、依然として犯人がどうやって屋敷から消えたかはわからない。そして物語が三分の二まで進んだところでエルキュール・ポアロをさらに気取り屋にしたような私立探偵が登場する、という具合。
展開そのものは凄く王道のもの、です。ただ、容疑者が二転三転するディスカッションは1932年ということを考えると、相当にねちっこいのでは。
最終的に明らかにされるトリックは現在からすればそこまで驚くものではないにせよ、容疑者絞り込みのロジックがいいし、何よりも指摘されてはじめて気付くが、充分にフェアである意外な手掛かりが素晴らしい。あと細かいところで、単なる捨てトリックと思われたものにも意味があった、というのもセンスがいい。
フランス・ミステリには肩透かしなものもありますが、これは堂々たる謎解きミステリです。文句なく面白かった。
2023-02-14
リチャード・ハル「伯母殺人事件」
1934年発表のデビュー作だそうです。
昔から倒叙ものの古典として『殺意』、『クロイドン発12時30分』と並び称されるのがこの『伯母殺人事件』ですが、わたしは三作品のどれも通ってこなかったのであります。個人的に推理の興味が希薄なミステリはあまり読みたくないのですが、まあ現物に当たれば意外といけるかも、という気の迷いが起こって手にしてみた次第。
ストーリーはかなりシンプル。ごくつぶしの若者が(育ての親である)口やかましい伯母の殺害を企てる、というもの。倒叙なので、そのいきさつを日記にしたためる、という形式が取られています。
語り手の若者、エドワードというのはどうしようもない、知的ぶったろくでなしです。仕事につかず伯母さんのすねをかじりながら暮らしていて、周りの人間を自分より知性や品位の低い田舎者として内心、見下している。そして、自分の行動がそれらの人々に迷惑となっても気づかす、伯母からは再三、その事実を指摘されるものの、プライドの高いエドワード君は素直に認めようとはしない。
そんな彼が犯罪を企てるのだが、実際にはそれほど利口というわけではなく、そもそも労働を嫌悪しているために仕掛けがとても雑で、うまくいかない。そこのところに皮肉やとぼけたユーモアが感じられ、家庭内のねちねちしたやりとりを中心に描かれているのに重くならず、読みやすいものになっています。
失敗を重ねるうち、伯母自身も向けられた殺意に気付いている素振りを見せはじめるのだが、エドワードはそれをはっきりと認めようとしない。この、自分にも見えているはずの現実を棚上げにし、状態の取り返しがつかなくなるまで都合のいい妄想を続けていく感じがたまらん。幼児的ではあるけれど、とても現代的だ。
さて、ミステリとしての肝の部分なんですが、これは残念ながら古びてしまっていて、現代の読者だと予想が付きやすいもの。最後のセンテンスなど、なるほど綺麗に決まっているけれど。
しかし、この最後の章は誰のために書かれたのだろう。そのところを深読みしていくと面白い。なにしろ、伯母さんはエドワードの文章に対しても検閲を行った、というのだから。全体が信用できない語り手による創作、といえないか。
一般に倒叙ものというのは前半に犯行に至る過程が描かれ、後半になると警察らの手によって事件が解決される、その行き筋のサスペンスや、万全に見えた計画の中に生まれた齟齬の意外性などが読みどころだと思うのだけれど、そういう点でこの作品は破格ですね。
なんでしょう、枠におさまらない犯罪ユーモア小説というところか、とても英国らしい。
2023-01-28
Four Tops / Keeper Of The Castle
1972年、フォー・トップスがモータウンからダンヒルに移籍して一枚目のアルバム。
プロデュースはスティーヴ・バリー、デニス・ランバート、ブライアン・ポッター。ランバート&ポッターはダンヒルといえばこのひとたち、というポップソウルの職人ですな。アルバムの収録曲も半分はこのチームの作曲ですが、残りはフォー・トップスのベース・シンガーであるオービー・ベンスンを中心に作られたものになっています。
サウンドはいかにもLA録音らしい解放感漂うもので、タイトなリズムと華やかなアレンジのバランスも素晴らしい。アルバム冒頭のタイトル曲から躍動するリーヴァイ・スタッブスの声がよく映えるし、バックコーラスも聞き取りやすい。
そして続く "Ain't No Woman(Like The One I've Got)" が都会的でスウィートなミディアム。これがシングル・ヒットして新たなフォー・トップスを印象付けることに成功したのだな。わたしもアルバム中ではこの曲が一番好きです。
また、当時流行りのフィリー・マナーをなぞった曲がスロウの "Put A Little Love Away"、 オージェイズのようなミディアム "Love Music" とあるのだが、管弦のジャズっぽさが薄いからだろうか、本家よりも親しみやすいような感じで、これがランバート&ポッターのテイストなのだろう。
アレンジには曲によってデニス・ランバート、ジミー・ハスケルのほか、ギル・アスキーというジャズ畑のひとが入っていて、これがいい塩梅にバラエティに貢献しているよう。軽快でおしゃれな "The Good Lord Knows" や、小気味良くオルガンが引っ張っていくサンシャイン・ポップ "Love Makes You Human"、いずれもあまりソウル的ではない曲調だけれど、オーソドックスなナンバーの狭間で実に効果を発揮しています。
そして、このセンスがよりソウルらしい曲の中でうまく生きたのが "When Tonight Meets Tomorrow" という、ちょっと凝ったメロディをもつ曲。ニュー・ソウル味も感じる実に洒落た仕上がりで、軽やかでメロウなバックに緩急を利かせたリーヴァイ・スタッブスのボーカルがとても格好いい。
いい意味で大衆的で明るさがある、聴きどころの多いアルバムです。
2023-01-09
エラリイ・クイーン「靴に棲む老婆〔新訳版〕」
1943年長編。
前作『災厄の町』がゆったりと進んでいくリアリステイックなミステリであったのに対して、この『靴に棲む老婆』は逆に振りきったようなプロットで、その複雑さは初期クイーンに戻ったようだ。
舞台はニューヨークであるけれど、物語が展開するポッツ家は『Yの悲劇』のハッター家をアレンジしたような、ちょっとした異世界。どこか世間の常識が通らない、そのことが普通になっている屋敷。そこで起こるのはマザーグースをなぞるような事件だ。語り口もところどころ芝居がかっていて、トマス・ヴェリー部長刑事の科白回しにすら舞台めいたところがある。
肝心の謎も設定にふさわしく、捻ったものであって、なにしろ、実際に銃の引き金を引いて人を殺した男が何の罪にも問われず、他に真犯人がいるというのだから。
あいにく、マザーグースの物語への取り込みはそれほどうまくいってはいない。あとになって取って付けたような感じを受けるもので、捜査側が符合を気にするほどの説得力がないように思う。 また、消えた銃のありかはひとつの見所でありえるのに、わかって見ると肩すかしで、『アメリカ銃の謎』の作者とは思えない謎の扱いだ。
重大な証拠が判明するのが解決編直前なのはパズルとしての弱点だが、それさえ逆手に取ったような解明シーンの盛り上げはさすがのクイーン。推理によってサスペンスが生まれる、その恰好良さよ。
ピースがひとつ入れ替わる、それだけで見えていた図がきわめてロジカルに反転し、また綺麗に閉じていく。このキレこそがわたしにとってのクイーン最大の魅力だ。
物語としての完成度はいまひとつ。けれど、キャリア後期に大きく展開されるテーマを扱いながら、あくまで物証に基づく推理で綺麗にまとめているという点で、やはり見逃せない作品ではあります。
ハヤカワの新訳クイーンも、これで1940年代の長編は全て揃ったので、ひとまずはおしまいでしょうか。
2022-12-30
Astrud Gilberto / September 17, 1969
1969年、アストラッド・ジルベルトのVerveからは最後となったアルバムです、たぶん。日本で制作され日本語で歌ったアルバムが日本のヴァーヴからのみ発売されていて、そちらのほうがレコーディングは先であったが、もしやリリースは後かもしれません。
制作はニューヨーク。アレンジャーはアル・ゴーゴーニですから、ところどころジャズっぽい味付けはありますが、まあ品の良いポップス。ゴーゴーニはフォーキーなポップスを得意としたソングライターでセッション・ギタリストでもあったわけですが、ここではアレンジのみを担当しているようです。
取り上げているマテリアルは例によって英米の知られた曲のカヴァーが多いですが、特にオープナーであるシカゴの "Beginnings" が出色。この一曲によってアルバムが耳当たりの良いポップソング集にとどまらない、特別なものになっているように思います。
アレンジそのものはシカゴのオリジナルとそうは変わらないものの、パーカッションを入れリズムにラテン的なニュアンスを加えることで曲に切迫感が生まれています。さらに管がこちらのほうがずっと良い。きっちりとしたプロダクションの結果、爽やかかつ、スケールの大きな何かが始まるような雰囲気を持ち、とても恰好いい出来栄え。
アナログA面に当たる前半がややエッジを利かせたようなアレンジのものが多く、それに対して後半はもう少し落ち着いた感触の曲が並んでいて、アストラッド・ジルベルトの頼りない歌声との相性は後半の方が良いかと。中ではマーゴ・ガーヤンの "Think Of Rain" が個性がぴったりとはまった仕上がりのサンシャイン・ポップで、好みです。
基本、このひとの曲は歌手としては何の期待もせず聴くので、うまくいっているものがあると得したような気分になりますね。
2022-12-03
Roy Wood / Mustard
ロイ・ウッド、1975年リリースのセカンド・ソロ・アルバム。これもなんともいえないジャケットですな。
'70年代前半のロイ・ウッドはウィザードとしてのバンド活動もしていましたが、ソロ・アルバムの方は殆どの楽器を一人で演奏するワンマン・レコーディングで制作されています。で、ソロとしての一作目「Boulders」がパーソナルな面を感じさせるものであったのに対して、こちら「Mustard」はゴージャスで大きな編成の作りになっていて、バンドでの音楽との距離があまりなくなっているような感じがします。
アメリカン・ポップに対する愛情がわかりやすく示された曲が多く、アンドルーズ・シスターズ風のオープニング曲 “Mustard” からしてそれが顕著です。
続いての“Any Old Time Will Do” はメロディ、ハーモニー・アレンジともに'60年代初期ガール・グループを土台にしているよう。もっとも、サウンドは時代を反映していて、管楽器の響きなどいかにも抜けが良く、都会的なテイストもなくはない (オールディーズ・ポップの世界において「ガール・グループ」というタームは、1950年代終盤から'60年代初めにニューヨークで制作された黒人女性ボーカル・グループもの、という特定の音楽スタイルを指すのが一般的な用法ですかね。わたしはもうちょっと緩めに使っています)。
また、“Look Thru' The Eyes Of A Fool” はシャッフルに乗せたとてもキャッチーでこれもアメリカンなポップ・ソング。ようはフィル・スペクターなのですが、仕上がりはむしろラウドな大滝詠一という表現が近いか。
でもって、“Why Does Such A Pretty Girl Sing Those Sad Songs” は('70年代初頭くらいの)ビーチ・ボーイズへのオマージュである力作です。ベース・ボイスにはマイク・ラヴが降りてきているようだ。このアルバムでどれか一曲となったら、わたしはこれを選びます。
凝りに凝ったアレンジがいかにもしつこく、もう少しすっきり仕上げた方が良いと思わなくもないけれど、この重たさもロイ・ウッドの持ち味ではあるか。
ポップだけれど、くどい。けれど、やりたいことの多さがパワーとなっている音楽で、これこそがロイ・ウッドなのだな。
2022-11-12
横溝正史「八つ墓村」
横溝正史作品を読むのは5年ぶりになる。昔、Kindleで「金田一耕助ファイル 全22冊合本版 」というセットをバーゲン価格で購入したのだけれど、そこから3作ほど読んだところで端末が壊れたのだ。
今年になってKindle Paperwhiteを買い直して、そういえば何か持っていたなと思い出し、また読み始めようか、と思った次第。
『八つ墓村』は金田一耕助ものとしては4つ目の長編なのかな。細かいことは良く知らないのですよ、雑誌掲載の順で考えるか、単行本となった時期を基準にするか、ややこしい。
まあ、これも有名作なので細かい説明とかはいらないか。
物語前半は連続殺人事件と現場に残される不可解な手掛かりがミステリとしての興趣を盛り上げる。この部分はこの作品以前の金田一もの長編とも共通するような本格ミステリど真ん中、といった雰囲気。それが後半には洞窟内を舞台にした伝奇的な物語になってしまう。もしかしたらディクスン・カーのロマン作家としての部分を受けたものかもしれない。
ミステリとしては犯人が物語の流れの中でわかってしまう、という点で謎解きとしての結構が放棄されているようなところがある。さらに、その犯人が物語後半になると全く顔を出さない、というのも印象を弱めている。というか、物語の後半になると真犯人への興味がうっちゃられているものね。
もっとも、犯人確定のロジックはとてもスマートだ。さらに、明かされる前半部分に散りばめられていた伏線の数々は面白い。特に僧侶の言動に隠された秘密など意外性充分。そして、事件全体の複雑な構造はクリスティからきているらしいが、クイーンの有名作を思わせる要素もあって、いかにも力がこもったものだ。これらアイディアをもってすれば本格ミステリとして相当なものにすることも可能であったろう。
正直、洞窟内のパートはだれたのですが、解決編はとても楽しく読めました。
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