2024-08-19

有栖川有栖「日本扇の謎」


舞鶴市にある浜辺で座り込んでいた男は記憶を失っていた。身元を明らかにするものはなく、所持していたのは富士が描かれた扇のみ。やがて、身内だという人物が名乗り出て、彼は自宅へと引き取られていった。
半月後、記憶をなくしたままの彼の周りで密室殺人事件が発生。同時に彼自身も姿を消してしまう。


二年ぶりとなる作家アリスものの新作。
殺人事件は内部事情に通じたものの犯行である可能性が高いように見える。当然、失踪した青年には強い嫌疑がかけられます。それとは別に密室の謎や、警備システムが作動している屋敷内から青年がどうやって姿を消すことができたのか、という問題が立ちふさがります。
関係者たちへの聴取が繰り返されるが、事件の本質へつながるような線がさっぱり見えてこない。
やがて、20年ほど昔に起きた事故が明らかになる。それが直接に、現在の事件と関わってくるとは考えにくいが、ミステリ小説なので全く無関係なエピソードということはないのだろうな。

殺人事件に付随した密室、人間消失などは物語の進行とともに、ひとまずは現実的なレベルで解釈されていきます。あるものはあっけなく、あるいはシャーロック・ホームズ流の「ありえないものを排除していった結果、残されたもの」として。
そうした後も依然として強固なのはフーダニットとしての謎。誰にもアリバイはないし、動機すら浮かんでこない。

「私はこれから辻褄を合わせていきます」
ミステリにおいては確固とした証拠もなく、演繹的ではない推理は悪くするとご都合主義的な印象を与えてしまうことがある。そのことを十分に承知したうえで、仮説が語られていく。特徴的なのは判る部分からパズルを潰していくうちに、過程で保留にしていた箇所もいつのまにか確定していく、という手法で。そういえば、作品前半部分で数独(ナンプレ)について触れたところがあったが、この謎解きを暗示していたのね。
推理によって事件の見え方が一変し、謎の本質が明らかになる瞬間が実に鮮やかであります。わかってみればオーソドックスなミステリなのだが、こちらの先入観を操るのが巧いのだ。

ドラマをしっかりと書き込みながら、ウェットになり過ぎない結末も好ましい。うん、面白かったです。

2024-07-22

ジョン・ディクスン・カー「悪魔のひじの家」


カーの作家キャリアでも終盤にあたる1965年に発表された、ギデオン・フェル博士もの長編。
幽霊が出るという屋敷、そこで起こる密室事件という設定で、大筋で見ればあまり新規なところもない、手慣れたものと言えましょうか。訳ありのヒロインがひとりで苦悩しては、主人公の男を遠ざけようとするとする、うざいやりとりも何度読んできたことか。

今作での幽霊は何度も目撃され、屋敷の鍵のかかったドアや窓からも出入りする。さらに、この幽霊は住人たちを怯えさせるだけでなく、物理的な実態も備えているようで、拳銃を使ったりもします。

事態が深刻になるのが文庫で200ページ近くになってからで、それまでも事件は起こっているのだが、大きな被害が出ていないため警察への通報には至らず。関係者たちの本心を隠したような謎めかしたやり取りばかりを読まされ、ちょっと疲れてくる。
また、舞台となる屋敷のつくりがわかりにくい。通路の右側には、とか左にはとか書かれていても、そもそも人物がどちらを向いているのかが知る由もないため、理解するのにいちいち手間取る。図面を付けると都合が悪いことでもあるのだろうか。それ以外にも、科白が説明的すぎて、わざとらしいところが目立ち、歳をとって小説が下手になったのでは、と思ってしまう。
メインとなる事件が起こると、別件で呼ばれていたというフェル博士がすぐに登場。そこからようやく、状況が少しずつ整理されていきます。

真相は相当に意外なものであります。最初の襲撃がまるごと誤導のためにある、という趣向は凄い。もっとも、それを実現するための手段はあこぎなもので、人によっては許容できないだろう。
ともかく、説明されてみれば無駄に感じられた饒舌のなかに手掛かりが隠されていたことがわかります。あからさまな伏線もあって、それを巡る推理も面白い。 その一方で証拠は弱いし、密室トリックはたまたま成立した、という類のものであって、納得感は薄いな。

解決編は面白く読めますが、そこへ辿り着くまでの文章に締りがない、という感想です。とはいえ、真っ向勝負のミステリではあります。

2024-07-15

劉慈欣「三体Ⅲ 死神永生」


三部作の完結編であります。帯には「三体vs地球 最終決戦が始まる!」の文字。どうしたの、第二部の最後で地球と三体世界は仲良くなったんじゃなかったの、とも思いますが。こうしないと話が続かないね。

今作は導入からして前二作とは少し変わっています。『時の外の過去』からの抜粋という文章が置かれており、その中で「以下に語る出来事は、過去に起きたことではなく、いま現在起きていることでも、未来に起きることでもない」とあって、なんだかメタフィクションっぽい。この、物語の外側から書かれた文章は、後にもたびたび注釈パートとして入ってきます。

作中時代はいったん、第二部のはじめの頃に戻ります。対・三体世界として面壁作戦と同時に展開されていた計画があったというのです。その中心にいたのが女性の研究者、程心ていしん(チェン・シン)。今作では彼女の視点から、三体世界との関係とそれに伴う地球の変化が語られます。くわしくは言いませんが、地球全体が再びすさまじい災禍に見舞われるのです。ところがその物語は上巻の後半で突然、終わってしまう、そう見える。
地球は相変わらず危機にあるのだけれど、お話はもはや三体世界と関係ないところへ行ってしまう。そして、後半へいくにつれてSFとしての純度もどんどんあがっていく。特に宇宙空間へ舞台を移すことで、制限がなくなったようにスケールの大きなアイディアが炸裂していきます。

なお、程心のキャラクターがあまり能動的なものではないので、途中までは乗りにくいかもしれません。作品の規模が途轍もなく大きくなったため、個人の行動を中心に話を進めることが難しくなり、視点人物には事象の観察者としての役割が大きくなってしまうのも仕方ないところでしょう。

あまりなほどに広がっていく光景に、下巻後半にはもう展開を見守るばかり。いわゆるワイドスクリーン・バロックです。かと言って、まとまりを欠いているわけでもない。とりわけ、途中で落ちていったと思われた要素が忘れた頃に重要なキーとして蘇ってくると、ぐっと来ますな。
そして最後には煙に巻くこともなく、しっかりとした結末へ。メタフィクションではなかった。

三部作中でも特にSFでした。いや、凄いものを読ませていただきました。

2024-06-16

笹沢左保「他殺岬」


フリーのルポライターである天地昌二朗、その息子が誘拐される。犯人は電話で身元を名乗った上で天地に、お前の書いた記事のせいで自分の妻は自殺したのだ、その復讐のために五日後、お前の子供を処刑する、それまで苦しむがいい、と告げる。
営利目的でもなければ警察に捕まることも恐れていない誘拐。息子の命を助けるために天地が取った行動は、犯人の妻の死は自分のせいではなく、実は他殺であると証明することであった。


1976年長編。誘拐物でありタイムリミット・サスペンスでもあり、なおかつ本筋はフーダニットであります。
主人公の天地は件の事件を他殺と仮定し、その容疑者をリストアップ。事件当時の行動を洗い出し、不審なところがないかを調査。それとは別に、天地の息子が通っていた保育園で起こった殺人事件もあって、それがどう絡んでくるのか。

状況が状況だけに天地は、深夜帯以外はノンストップで調査を続ける。また、この作品はほぼ天地の行動のみを追って書かれているので、話が一切、脇に逸れることなく、ぐいぐい進んでいく。
また、容疑者のアリバイ崩しの過程で、それとは別に真相へつながる伏線を仕込んでいくという丁寧設計であり、頭から尻尾まで捨てる所が無い。
なお、推理の転換点がいくつかあるのだが、そのきっかけとなるのは些細な違和感であって、そこから仮説を立てるとうまい具合に裏付けが見つかるという具合で、やや都合が良すぎるのは否めない。ただ、この作品のもつスピード感にはそれが合っていると思う。

登場人物が限られていることもあって、読みなれていれば真犯人の見当をつけることはできるかも。けれど、この作品ではそこからさらにもう一歩展開があります。

とにかくアイディアの量と、型にはまらないプロットの意外性が素晴らしい。話が出来過ぎているところも目立ちますが、人工性の強さは作者の持ち味でもあろう。面白かったです。

2024-06-15

アリステア・マクリーン「北極基地/潜航作戦」


北極にある英国の気象観測基地ゼブラで大火災が起こった。生き残った人々を救出するため医師カーペンターは、米国が誇る原子力潜水艦ドルフィンに同乗。ただし、彼には北極へ向かうのに、表向きのもの以外にも秘密にせねばならない任務があったのだ。


1963年長編。北極での自然を相手にした命がけの闘いがとにかく過酷きわまりない。困難のレベルを徐々に上げていくことでリアリティを確保、緊張感を持続しながら読み進められます。さらに潜水艦にも絶体絶命の危機が襲い掛かり、極限状態にさらされ続けた登場人物たちはみんなフラフラ。果てに死人も出ます。
それでも雰囲気が必要以上に重くなり過ぎないのがいいところで、これは潜水艦の艦長以下、米国人の乗組員たちのキャラクターによるところが大。緊急時でも軽口を叩き、ドライな態度を装うプロフェッショナルたちが恰好いいのです。

密度の高い冒険小説であることは間違いないですが、それ以外の要素が隠されていることは、はじめのうちからほのめかされているわけで。カーペンターは潜水艦のトラブルや観測基地の火災の原因に人為的なものを嗅ぎつけます。犯人を見つけるべく行動を起こすが、彼自身も無事では済まなかった。
災害の影に暗躍しているのは誰か。サスペンスとフーダニットとしての興味が絡み始め、おかげで単調に陥ることがないのです。
ただ、すこしケチをつけると、北極基地に到着してから登場人物がいきなり増えて、区別が大変。気にせず進めようとしても、火災時の人の出入りがミステリとして重要になってくるのでそうもいかず。図面を書いて整理しながら読み続けました。

そうして終盤にはいよいよ、全ての謎が明らかにされます。まさに「名探偵、みなを集めて…」をやるわけです。推理そのものはそう厳密ではないのですが、周到な伏線とプレゼンテーションによって、スリリングな展開が存分に楽しめます。
事件の背後にあったのはいかにも冷戦以前らしい図式で、今読むと単純に過ぎるかもしれませんが、おかげでエンターテイメントとしてはすっきりと後味良いものになっているかと。

2024-05-30

米澤穂信「冬期限定ボンボンショコラ事件」


小市民シリーズ四季四部作の最後、であります。今回、扱われているのは小鳩君自身の事件であり、語り口は軽妙ながら、雰囲気はいつにも増してシリアスだ。

小鳩君と小山内さんが並んで道を歩いていると、向かいから来た車が急に方向を変え、ふたりの方へ。とっさに小山内さんを道の外側へ突き飛ばした小鳩君だったが、自分は轢かれてしまう。車は逃走し、小鳩君は重症を負い入院。
控えていた大学受験も見送らざるを得なくなった小鳩君は、三年ほど前にもふたりが関わった別の轢き逃げ事件のことを想起する。その状況が現在の事件とよく似ていたのだ。病院のベッドの上で他にできることのない小鳩君は、過去の事件の顛末を少しずつノートに書き起こし始める。
以降、病院での生活と過去の回想がカットバック的に語られていくのですが。このうち過去の事件のパートは互いの信頼関係がまだ固まっていないことが実は肝ではないか、と疑いながら読んでいました。それにしても、こちらの事件も小鳩君にとっては苦い記憶であることがほのめかされ、あまり楽しい雰囲気ではないのね。
当時、中学三年生であった小鳩君と小山内さんは、逃走した車の足取りを追ううち、ありえない事実を発見してしまう。

読んでいて、どうも勝手が違う。こちらの予断が外され続けていく感じ。
小鳩君が事故にあって身動きがとれなくなった、その犯人を小山内さんが探しているという、これが物語のメインで、前半部は主に過去の事件の回想を中心に進むけれど、後半では小山内さんによる調査もあって、現在の事件と過去のそれとの意外なつながりが浮かびあがってくる。そんな風な展開を想像していたのだが。
結構なところまで読み進んでも、小鳩君の回想はなかなか終わらないし、小山内さんは冒頭以降、ずっと登場しない。一体、この物語はどこへ向かっているのか。

……などと考えていると終盤に、思ってもみなかった展開が待っていた。一応、読んでいて引っ掛かりを覚えてはいたのだが、こういう趣向を使ってくるとは。サイコスリラー的な仕掛けと丁寧な伏線の組み合わせによって大きな効果が上がっていると思います。そこからは小鳩君による怒涛の推理と小山内さんの策謀が炸裂、見事な本格ミステリとして着地します。ほれぼれするね。

また、小鳩君の成長の物語としても良くって。今作で語られる過去の失敗があって、シリーズ第一作『春期限定いちごタルト事件』の導入部分へと繋がっていくのだけど、思えば『春季~』からはまだ、感情的なストレスを回避するようにして物語が進んでいくような印象を受けていたのだ。遠くまで来たものだ。
よい終幕でした。

2024-05-27

Chris Clark / The Motown Collection


モータウンで1960年代に活動した白人女性シンガー、クリス・クラークの2CD音源集。2005年に英国で出されたれたもので、やはりかの国でのこういった音楽のニーズは高いのですね。
ディスク1にはリリースされた二枚のアルバムとシングル・オンリーの曲が25曲。ディスク2には未発表のものが同じく25曲収録されています。

一枚目のアルバム「Soul Sounds」は1967年リリース。シングル曲を中心にした寄せ集めらしく、曲ごとに違うプロデューサーがついています。音楽のほうは当時の典型的なデトロイト・ノーザンなのですが、さすがに往時のモータウンらしい軽快かつシャープな仕上がり。主役のクラークさんは力強くもしなやか、少しハスキーなところのある歌声で恰好よく乗りこなしています。
全体に安心して聴けるアルバムですが、スマッシュ・ヒットした "Love's Gone Bad" はホランド=ドジャー=ホランド制作ながら、モータウンの類型を抜け出した仕上がり。思わず「おっ」となりますね。

「Soul Sounds」が時たま話題に上がるアルバムとすると、その二年後に出されたセカンド「CC Rides Again」は単独での再発もなく、滅多に触れられることもありません。このアルバムをリリースするためだけにモータウンはWeedというサブ・レーベルを立て、さらにレコードにはクリス・クラークの名はなく、ただ「CC Rides Again」と書いてあるのみと、オブスキュアの見本のよう(実際、200枚ほどしか売れなかったそう)。
中身の方はというと、これが一枚目とは全く違うものになっているのですね。いわゆるモータウンらしいサウンドではありません。プロデュースを任されたディーク・リチャーズによればR&Bのファンは良く知らない白人女性シンガーの歌など聴きたくならない、という判断がなされたそうで(何を今更、ですが)、ターゲットとするマーケットを変えたのでしょう。また、とても急なスケジュールで制作されたためにオリジナルの楽曲は2曲しか用意できず、残りは当時のヒット曲や有名曲のカバーとなっています。
聴き始めるとアルバム冒頭、いきなりウィリアム・テル序曲が流れ出し、面食らうこと必至。しかし、それに続く "C.C. Rider" がかなりいけてるスワンプ・ロックで一安心。残る曲もブルー・アイド・ソウルとして聴けるものと、がっつりミドル・オブ・ザ・ロードなポップスの混交で、同時代のダスティ・スプリングフィールドに近いテイスト。歌唱も申し分なく、期待するものを間違えなければ悪くない出来なのです。中ではアルバムの為のオリジナルである "How About You" がソウル色はまったくありませんが、普通にソフトサウンディングなポップスとして気に入りました。

なお、未発表曲はどれもきっちり最後まで仕上げられており、それが公式リリースされたのと同じ量あるというもので、モータウンのシステム化されたプロダクションの凄さを感じます。他のシンガーやグループで親しんできた曲の少しアレンジの違うヴァージョンなども楽しめ、‘60年代モータウン好きなら不満なく聴くことが出来るかと。