foolishpride.
2025-02-07
平石貴樹「室蘭地球岬のフィナーレ」
昨年発表された長編で、函館を舞台にしたシリーズの最終作です。
関係者が重複した事件が断続的に三度起こるのだが、個々の事件の結びつきが見出しにくい。シリーズのこれまでの作品同様、複雑に絡み合った人間関係が背景にあり、さらに遠い過去にも何やら因縁が。
前作の後、探偵役であるジャン・ピエール青年がフランスに帰国したため、後半までは捜査小説としての趣が強い。その過程での意外な展開も楽しめますが、本書の帯の後ろでは少しその辺りを割っているので見ない方がいいかも。
警察では二つの事件についてはとりあえずの決着をつけつつも、残りのひとつに関しては捜査が行き詰まりに。そんな折、舟見警部補のもとにジャン・ピエールから手紙が送られてくる。なんと、一時的に日本に戻ってくる用事があるというのだ。
舟見から説明を受けながら現場を見て回るジャン・ピエール。新たな事実の発見などは無さそうだが、紙面にしてわずか4ページほどの間で真相に到達する。つまり、手掛かりは既に揃っていたということだ。
そうして明かされる奸計は驚きもので、読んでいて声を上げちゃいました。ひとによってはふざけるな! と腹を立てるかもしれない。しかし伏線はふんだんにあるし、それを成立させるための描写は(思い起こせば)とてもスリリングです。何より、それによって全てがひとつの流れの中に綺麗に収まってしまうのであるから、仕方ないではないか。
グレイトなハード・パズラーで、個人的には大満足です。
2025-01-25
ジャニス・ハレット「アルパートンの天使たち」
英国では2023年に出されたジャニス・ハレットの第三長編。文庫で750ページ弱と、デビュー作であった『ポピーのためにできること』より、ちょっとだけ厚い。ページの余白が多いので、実際の分量としては見かけほどでもないのですが。
今作も地の文がなく、メッセージ・アプリのログにメール文、インタビューの文字起こしや新聞記事などから構成されている。『ポピー~』にはそういったテキストに対して外枠になるやりとりがあったし、正解が用意されていることも保証されていました。しかし、今作はどういう種類の物語になるのかわからないので、やや不安ではある。
時は2021年、犯罪ドキュメンタリー作家であるアマンダという女性が、18年前に起こったカルト宗教絡みのむごたらしい事件についての本を書くことになる。その取材として、過去の関係者たちにインタビューを行うのだが、それぞれの事実認識のずれが積み重なっていく上、取材そのものを抑止するような動きがあるようで、次第に不穏な空気が高まっていく。
主人公がはっきりとした形で立てられており、本筋として事件後に行方知れずになった人物を捜索する、というのがあるので、実は『ポピー~』と比べると読みやすいです。
またテキストの集積といえど、隠し録りデータの文字起こしの部分からは動きが感じられ、説明がないことが却って迫力を生むことになっているかと。
なかなか全体像が見えてこず、お話がどこへ向かうのか、謎のうちどれだけがちゃんと説明を付けられるのか、と思いながら読んでいましたが、全体の三分の二くらいまできて、さまざまなパーツがひとつの絵に嵌りはじめる。
そして終盤には怒涛の真相解明が。この物語に無駄な部分などひとつとして無かったのだ。ここへ来て、堂々たるミステリとしての姿が立ち上がってくる。
さらに我が国の新本格を思わせる幕切れ、いやはや。
『ポピー~』には冗長な感もあったのですが、今作では地の文がない、という形式が仕掛けにしっかり結びついていて、ミステリとしての密度がかなり高い。力作ですな。
2025-01-09
有栖川有栖「砂男」
6作品が収録された短編集。文庫オリジナルの企画ですが、入っているのが単行本未収録作品ばかりとあっては見逃せない。選定のしばりから、書かれた時代がばらばらなだけでなく、江上次郎ものと火村英生ものの両シリーズが共存するという事態が発生しています。まあ、一編ずつ読むには関係はないのですが。
まず、はじめは江上二郎率いる英都大学推理小説研究会ものがふたつ。
「女か猫か」 密室内での怪事件であり、扉には封印まで施されている。謎解きのほうは軽めの印象を受けるかもしれませんが、設定を生かして困難の分割をさらりとやってのけています。また、人名の遊びなども余裕が感じられて愉しい。
「推理研VSパズル研」 日常の謎ですらない、パズル研から出された問題に推理研のメンバーたちが頭を捻る前半。この部分だけでも短編として成立はしそうなのだが、本領発揮はそこから。推理小説の謎とクイズやパズルとの違いに言及しながら、正解のない問いと格闘する遊び心に満ちた一編。
続いてノンシリーズものがひとつ。
「ミステリ作家とその弟子」 タイトル通り、ベテランのミステリ作家とその内弟子の物語。現代の風俗を反映しながらも、仕上がりは昭和のミステリっぽい。昔話や童話をミステリ作家ならどう見るか、という「推理研VSパズル研」と似た趣向の部分も面白い。
火村英生&作家アリスものがふたつ。それぞれ2004年と1997年に発表されながら、理由あって単行本には採られてこなかった作品です。今回、注釈入りでならとのことで無事、読めるようになりました。
「海より深い川」 相当にトリッキーだが、性急な書きぶりでもある。全く掴み所の無さそうな事件について、火村はアリスの部屋で説明をしているうちに解決に思い至る。
「砂男」 長編化を考えていただけあって、この作品のみ中編ほどのボリュームがある。都市伝説をとてもうまく取り込んだミステリであります。
最後はあっさりとしたテイストのもの。
「小さな謎、解きます」 商店街の中にある探偵事務所を舞台に、ちょっとした謎解きがなされる小品の連作。軽みと、薄っすらとファンタスティックな感触があるのがいいですな。
2025-01-03
「有栖川有栖に捧げる七つの謎」
若手作家7人による有栖川有栖トリビュート作品集。緩いものかと思いきや、みなさん本気。純粋にミステリ短編として力のこもったものが揃っており、かつテイストもさまざま。
青崎有吾「縄、綱、ロープ」 火村英生ものの、相当に完成度が高いパスティーシュ。知らずに読んだら有栖川有栖本人の手によるものだと思ってしまうに違いない。フーダニットとしてもクイーン的な手掛かりが採用されていて、愉しいです。
一穂ミチ「クローズド・クローズ」 火村&アリスものが続くのだが、読んでいてなんだか違和感。そうか、三人称で書かれているのだな。ちょっとわちゃわちゃした感じが、二次創作らしさがあって良いです。女子高を舞台にした盗難事件というのも、本家ではなさそうな趣向であります。文化祭の演目とのアナロジーが謎解きに落とし込まれていて、うまいですな。
織守きょうや「火村英生に捧げる怪談」 怪談とその現実的な解釈というのが、リアリストらしいキャラクターに合っています。日常の謎のものとしてアイディアを盛り込みつつ、段階的に手が込んだものになって、最後はいい塩梅の落としどころへ。
白井智之「ブラックミラー」 アリスが出てこない火村もの。タイトルがノンシリーズ長編『マジックミラー』を思わせるように、ゴリゴリのアリバイ崩し。トリックからなにからキレっキレです。
夕木春央「有栖川有栖嫌いの謎」 本書の中で唯一、二次創作にはあてはまらない短編。ユーモラスな日常の謎ですが、綺麗な伏線回収が気持ちよく、導かれる真相も意外性充分。
阿津川辰海「山伏地蔵坊の狼狽」 メタ趣向まで推理内に取り込む、凝りに凝ったフーダニット。名探偵小説そのものに対する批評にもなっているし、シリーズ二十年後の番外編としてもよくできている。
今村昌弘「型取られた死体は語る」 英都大学推理研ものだが、そこここに令和の時代が反映されている。扱われているのは疑似事件現場であり、配置された小道具の意図の確定が難しい。仮説のスクラップ&ビルドがねちっこい、推理研メンバーによるディスカッションそのものが読みどころ。
2024-12-31
アントニイ・バークリー「地下室の殺人」
とある住宅の地下室、その床下から女性の射殺体が発見される。調査にあたったモーズビー警部は、苦心の末に被害者の身元を突き止める。彼女はある学校で働いていたのだが、モーズビーは友人の小説家ロジャー・シェリンガムがそこで臨時に授業を行っていたことを思い出し、彼のもとを訪ねるのだった。
1932年長編。全10作あるロジャー・シェリンガムもののうち8作目にあたります。
シェリンガムはくだんの学校において水面下で進行していた様々な不和を察知しており、それらを使って小説を書きかけたこともあった。モーズビーはシェリンガムに被害者の名前を教えず、自身で書いた原稿を読みなおしてそれを当ててみては、と提案する。
ここで、70ページと少しある「ロジャー・シェリンガムの草稿」という章が挿入されます。ユーモアを交えながらも、(事件が起こる以前の)教師たちの人間関係や、その間で持ち上がっていた問題が明らかになっていく。
しかしよく考えると、わざわざ作中作の形式をとる必然性はないのでは。この部分の内容を最初に語っておいて、次にモーズビーらによる捜査を描けば済むだけの話ではないか。
被害者当ての趣向にしても、大して推理らしいものもなく、簡単に答えは明かされてしまうのだから。
ともかくその後、再びモーズビーによる捜査の様子がこと細かに描かれます。4分の3くらいまで物語の中心になっているのはモーズビーの活動であって、手堅い警察小説としての趣きであります。
そうして犯人の目星は付いたが、証拠がない。取り調べではったり交じりの揺さぶりをかけるが、被疑者は全くひっかかってこない。進展がなくなったことでようやくシェリンガムが本格的に動き出します。しかし、「単に一瞬頭にひらめいたことを話したにすぎな」いのに、それである関係者の重大な秘密を言い当てたりするのは、どうなのだろう。シェリンガムも作者も楽をし過ぎでは、と思わなくはない。
そのシェリンガムの推理だが想像力に基づく、といえばもっともらしいが内実はとても恣意的なものに思えるし、細部などはあいまいなままだ。犯人がいかにして被害者を地下室に連れ込んだか、をさんざん問題にした挙句にこの説明では納得はし難い。結局のところ、その推理が真相となるか否かは作者の匙加減ひとつであります。客観的に見ると、警察が目を付けた人物が実は潔白であった、という根拠は薄弱なままなのだから。
そして、この作者らしい捻りをもって物語は閉じるのですが、同時にパズルとしてのいい加減さにも駄目押しになっていて、じゃあモーズビーによる捜査に対するシビアさはなんだったのか、という気はします。
読んでいる間はそれなりに面白かったのだけれど、こじんまりしていて、バークリイ作品の中では落ちるかな、と思いました。
2024-12-01
アンソニー・ホロヴィッツ「死はすぐそばに」
探偵ホーソーンもののシリーズ5作目で、英国でも出たのは今年だそう。
これまでの作品ではすべてワトソン役であるホロヴィッツによる一人称で語られていたのだが、今作は三人称を採用、事件関係者たちの視点より物語が始まる。そこでは殺人が起こる以前、被害者が皆からいかに嫌われていたかが描かれている。
クリスティはポアロものからヘイスティングズをお役御免にすることでマンネリを回避、ミステリとしても形式の自由度を獲得したのだが、このシリーズ内からホロヴィッツを追い出すわけにはいかないだろう。次の章に入ると、それまでの文章が作中存在としてのホロヴィッツによるものであったことが明らかになる。
ホロヴィッツは出版エージェントから、ホーソーンを主人公にした作品の新しいのを書けとせっつかれていたのだが、そう都合よく事件は起こってくれない。そこで、自分と出会う前にホーソーンが解決した事件を小説化することを思いつく。ホーソーンはそのことに同意はしたものの、事件についての資料は全部まとめてではなく段階的に分けて渡し、解決は最後になるまで教えない、という。ホロヴィッツは結末がわからないまま作品を書くことになったのだ。
以降、章ごとにホロヴィッツによる作中作と現実パートが交互に語られるのだが、作品の中盤あたりでホロヴィッツによってミステリとしてはあるまじき行為がなされる。果たして物語はどう決着をつけるのか。
謎解きは伏線回収のつるべ打ち、といった感じのキレキレのもので読み応えがあります。いつもながら、本当にうまい。
ただ、この作品に関しては(はっきりとは書きませんが)ある難しい趣向を扱っていることが明らかになります。そのせいか、次第にホーソーンの推理にも想像に過ぎないところが増えていき、全体としての説得力が弱い印象を受けてしまう。
本書の中でホロヴィッツが密室ミステリを批判するのに「犯人たちはあまりに手ぎわがよく、ときとして人間離れしているほどだ」と語っているのだが、その言葉はこの作品自体の犯人像のほのめかしだったのかも。
それでも、真相を宙吊りにするような最後の展開は豪いもので、奇妙な非現実感すら漂っている。その直前までクリスティかと思って読んでいたら何だこれは、というね。ひとによってはやりすぎと感じるかもしれませんが。
結構な意欲作だと思います。プロット上のツイストも効いていて、読んでいる最中の面白さはシリーズでも上位でしょう。
2024-11-10
Chris & Peter Allen / Album #1
まさにサンシャイン・ポップのファン待望のリイシュー、と言いたいところなのだが。出してくれたのは隣接権切れ専門のオールデイズレコード。ということは板起こしか。
国内流通仕様の輸入盤という体になっていますが、例によって音源のライセンスに関するクレジットは何も記されていませんし、原盤を出しているはずの台湾の会社「ONCE MORE MUSIC」で検索をかけてもオールデイズレコードのカタログしかヒットしません。著作権の緩い台湾で出されたものを、こちらは輸入しているだけ、という建前で法律を搔い潜ろうとしているように思うのは穿ち過ぎか。
ついでにケチをつけるとライナーノーツの文章は日本語として結構ひどいです。また、クリス&ピーター・アレンのキャリアに触れた部分は主にウィキペディアからの情報を単なる想像で補ったものですが、その中で彼らはジュディ・ガーランドとともに来日して、その後3年近く日本に住んでいた、なんて書いてあります。1964~67年ということになりますが、その間もABCよりシングル・レコードを出したり、ガーランドのTVショウに供に出演していたわけで、流石に話に無理があるのでは。
さて、本題ですが。
「Album #1」は後にソロで身を立てるピーター・アレンが、男声デュオ時代に残した唯一のアルバム。1968年、Mercuryからのリリース。
プロデュースはアル・カーシャ、アレンジはジェリー・ロスとの仕事でお馴染みジミー・ウィズナー。ということはニューヨーク録音ですかね。
この頃、ピーター・アレンはまだ本格的に作曲を始めていなかったせいか、収録曲は外部の作家によるものか、有名なもののカバーとなります。
突出していいのはアル・カーシャが自分で書いた "Ten Below"。これなんていくつものコンピレイションに採られて、既にクラシックだと思うのだが。自然な転調を利かせたキャッチーなメロディに、シャッフル・ビートと細かく動くベースラインが気持ちを浮き立たせ、鉄琴や洒落たトランペットらが華やかな雰囲気を盛り上げる素ん晴らしい出来栄えであります。
他では、トニー・パワーズ&ジョージ・フィショフ作の "A Baby's Coming" もドリーミーでドラマティックなアレンジが良いです。
カバー曲ではスタンダードの "Just Friends" が気に入っております。ジャジーな感触を残したソフトサウンディングなポップスとして、同時期のA&Mレコードと通ずるようなテイストがたまらない。クリス・モンティズも取り上げている曲ですが、わたしはこちらの方が好みです。
残りの曲も手をかけたプロダクションで、メドレーになっている曲などはいわゆるバーバンク・サウンドを思わせます。歌声の弱さが気になる瞬間もあるのですが、全10曲で25分ほどしかないので、するっと終わってしまう。
これで音質がよければねえ。
なお、ボーナストラックとして、1966年にABCより出されたシングルの中より2曲が選ばれています。これらはどちらもピーター・アレンの自作で、うち "Two By Two" はP. F. スローン&スティーヴ・バリーが制作、マージー・ビート風からフォーク・ロックへと変化するアレンジが面白い。もう一曲の "Middle Of The Street" は相方のクリス・ベルとの共作で、こちらはなかなかの佳曲。力強く歌おうとして、却ってへなちょこになってしまっているのはご愛敬。
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