2015-02-08
Jellyfish / Bellybutton
ジェリーフィッシュの残したアルバム、「Bellybutton」(1990年)と「Spilt Milk」(1993年)が2CDデラックス・エディションで出ました。米Omnivoreからのリイシューです。
大量のデモやライヴ音源が入っていますが、今回初出となるものは無いようです。個人的に二枚のアルバムに関しては出たときに聴いていたのだけれど、それ以外のリリースは追いかけてなかったので、なかなか新鮮。
ジェリーフィッシュを聴いていると、しょっちゅう「こういう曲、どっかで聴いたことあるなあ」と思うのだが、圧倒的な完成度による迫力でねじ伏せられてしまうのだ。引用がマニアックなものに陥っておらず、ダイナミズムを生んでいる、といったらよいか。
その点デモ(といっても殆どアレンジは出来上がっているのだが)の場合、そこまでプロダクションを詰めている訳ではないので、比較的アイディアが判り易い。コーラスだけをとってもクイーンだけじゃなく、ELOやビーチ・ボーイズ、あるいはゾンビーズっぽいなあと思ったり。今となってはそれもほほえましく感じるな。
今回のパッケージではブックレットにメンバーによるコメント、各曲の解説がついています。勿論、本編もリマスターされていて、基本的にはいいリイシューだけれど。
「Bellybutton」収録の "I Wanna Stay Home" のイントロがやけに短いものに差し換わっています。シングル・ヴァージョンか何かと間違えたのでしょうか。
あと、「Spilt Milk」のジャケットもおかしい。本来、"Jellyfish presents Spilt Milk" と書かれているはずが、"presents" の部分が空白になっている。
決定版とはいかなかったよう。ちょっと残念。
2015-02-03
フィリップ・K・ディック「聖なる侵入〔新訳版〕」
ディックの生前、最後に出された長編。これも旧訳で読んでいると思うんだけど、さっぱり記憶にないなあ。
乱暴に言うと前作『ヴァリス』で説明された世界観をそのまま小説に仕立てたもので、神が目覚め、成長し、やがて悪の力と戦うというお話。今回は最初っからいかにもSFらしい設定で始まります。
ちらっと「ヴァリス」という言葉も登場しますが、直接ストーリーに絡んでくることはない。ただ、作品内では『ヴァリス』にあったのと似たエピソードがいくつか見られます。
SFの文法を駆使しながら、新しい神話のようなものをでっち上げようとしているという感じで、エンターテイメント小説として見ると引きが弱い。
また、この作品内での幻影として扱われる世界があって、それはあるキャラクターの願望を反映しているのだけれど、同時にそれは読者である我々が実際に生きている現実に近いものでもある。ちょっと『高い城の男』っぽいですかね。その幻影の世界を否定(あるいは肯定)することで、間接的に作品の外側にある現実世界を俎上に乗せているようだ。
『ヴァリス』より読みやすいし、まとまりもいい。しかし、この作品も魅力的なイメージに乏しい上、終盤の展開などあまりに安い。読者を説得する力に欠けていると思う。思弁小説とSFの狭間で妙にバランスを取ってしまったせいだろうか。
そもそもこの作品は人生がうまくいっているひとたちに向けて書かれたものではないのだろう。もう若くはない、いい歳をして未だに現実との折り合いに悪戦苦闘している誰かのための、祈りに似た何かだ。
2015-01-31
三津田信三「シェルター 終末の殺人」
編集者兼作家である三津田信三は「シェルター 終末の殺人」という長編作品を構想していた。
「世界規模の核戦争が勃発した後、ある核シェルター内に生き残った数人の男女の間で、有ろうことか連続殺人が起こる。下手をすると自分たち以外の人類はすべて死んでいるかもしれない極限状況の中、なぜ連続殺人が発生するのか」
その取材の為に、三津田は実際に核シェルターを備えた屋敷を訪れたのだが・・・・・・。
カバー裏の作品紹介には「"作家三部作" に連なるホラー&ミステリ長編」とあるのですが、今作においてホラーの要素は控えめ、クローズドサークルでの連続密室殺人を描いたミステリとして展開していきます。誰が犯人かは勿論、なぜ、初対面の人々の間で連続して殺人が、しかも密室となった部屋で起こるのかが大きな謎。
事件の大枠は三津田自身のアイディアを具現化しているように見えたが、やがて別の物語をなぞっているのでは、という疑念も浮かび上ががってくる。このあたりから、謎がさらに深いものになっていきます。犯人うんぬんよりも、全体として一体何が起こっているのか? を強く意識させられるのですね。また、ことさらにメタフィクション性が言及されるわけではないが、使われている密室トリックの人工性が強いため、読者からすれば虚構性を意識せずにはいられない。
大雑把な構造はクリスティの『そして誰もいなくなった』なわけで、読者の期待値が高まるなか予想をどう外すか。解決はとても丁寧に組上げられているにも拘わらず、設問の難度が高い分、印象が弱くなったきらいは否めません。
それを措いても、後半の展開がスリリング。充分に愉しみました。
2015-01-24
The Iveys / Maybe Tomorrow
軽快な演奏に、時にバブルガム的であるキャッチーさ。1969年に制作されたアイヴィーズの唯一のアルバムは、当時は日本と西ドイツ、及びイタリアでしかリリースされなかったそうであるけれども、それもうなずけなくはない。時代に対してちょっとそぐわなさそうなポップスであって、やはりビートルズ、しかも中期あたりの影響が非常に強く感じられます。ジャケットの方もニコッと笑顔で、アイドル然としたものだ(しかも、どうやらこの写真は左右反転しているらしい)。
急いで仕上げられたせいか全体にもこもこしたミックスもまた、いかにも垢抜けなさを感じさせますな。このアルバム収録曲のうちいくつかは翌年、バッドフィンガーとしてのデビュー盤「Magic Christian Music」にリミックスされた上で流用されるわけなんだけれど、そちらのほうが骨格のはっきりした明快なものに仕上がっているのは確か。
プロデュースは彼らをひいきにしていたアップルのマル・エヴァンズが5曲、残り7曲をトニー・ヴィスコンティが担当。
ヴィスコンティによれば、もともとは売れっ子プロデューサーであったデニー・コーデルがシングル盤の制作を請け負ったらしいのだけれど、走ったり遅れたりを繰り返すグルーヴの悪いドラムに我慢がならず、アシスタントであったヴィスコンティに丸投げするかたちでセッション途中に出て行ってしまったらしい。そして、なんとかそのシングルを完成させたヴィスコンティが、その流れでアルバムトラックも(グリン・ジョンズの助けを借りつつ)仕上げた、ということだそう。
ギターを中心にした陽気な曲調から、大胆にオーケストレーションを配したミドル・オブ・ザ・ロードなものまで、バラエティに富んだアレンジは逆に個性を弱めてしまっているところもあるのだけれど、後のハードポップとは違うクリーンなギターの音など'60年代ポップスのファンにはなかなかにたまらない。
また、作曲はピート・ハムとトム・エヴァンスが大体半分ずつを分け合うかたちでありますが、ピートらしい泣き節はこのころは未だなく、その分、トムがとても瑞々しいメロディの "Beautiful And Blue" や "Maybe Tomorrow" を聴かせてくれます。
全体にまだ青臭さを残した、未成熟なポップソング集であり、これ単体ではどうということは無いのかもしれませんが。いや、この軽味や無邪気さが今となってはなんとも捨て置けないな、と。
2015-01-18
The Moody Blues / The Magnificent Moodies
ムーディ・ブルースのデビュー・アルバム(1965年)、50周年記念の2CDです。 英Esotericからのリイシューで、オリジナルマスターテープからのリマスター、ということ。
内容としては、デニー・レイン在席時の音源がほとんど網羅されているよう。ただし、米盤アルバムではオープナーの "I'll Go Crazy" が別テイクらしいのだけれど、今回の2枚組にはその別テイクは収録されていません。
CDスリーヴは当時の米盤とオランダ盤を模したもの |
ディスク1は「The Magnificent Moodies」丸ごとにシングル曲、及び "Go Now!" の未発表ヴァージョンからなります。
このアルバムはいかにもなブリティッシュR&Bという感じですね。鍵盤の響きを生かした硬質なサウンド。オリジナル曲も演っていますが、何より性急さを感じさせるカバー曲の解釈が気持ちいい。大ヒット・シングルである "Go Now!" を除くと強い個性には欠ける印象を持っていたのですが、絶大なるリマスター効果で演奏の重量感がぐっと強くなった。格好良さ2割増しですよ。
ディスク2は全てが未発表のもので占められています。初期のレコーディングセッション、BBCでのスタジオライヴ、そして'66年に制作されながらリリースされずじまいであった新曲など。BBCはちょっと行儀がいい感じかな。
'66年のレコーディングのものは、麗しいコーラスアレンジにも力をいれたポップソング集で、ホリーズあたりを思わせるところもある。ただ、同時期のシングルにもいえるのだけれど、オリジナル曲にはいまひとつキャッチーなフックがない、というのも事実か。詳細なライナーノーツに寄せられたコメントによると、デニー・レインは既にこの頃にはムーディ・ブルースを辞めて新たなバンドを組むことを考えていたそう。あくまで過渡期の作品群、ということになりますか。
ミニポスターやカードなんかもついています |
2015-01-12
アガサ・クリスティー「マギンティ夫人は死んだ」
暇をもてあましていたポアロのもとを旧知のスペンス警視が訪れる。殺人事件の犯人を逮捕し、裁判で死刑判決が下るに至ったにもかかわらず、スペンスにはその人物が殺したとは思えなくなっていたのだ。かといって、他に有力な手がかりがあるわけではないという。ポアロは懊悩するスペンスの姿に心動かされ、事件を再調査し始める。
1952年に発表されたエルキュール・ポアロもの長編。
導入こそシリアスな調子ですが、それより後は穏やかなユーモアに包まれた作品です。
ポアロは事件のあった田舎町で単独、住民たち相手の聞き込みに廻るものの、高名な探偵を自負するポアロのことを皆、その名前も聞いたことがない様子。また、ポアロが滞在することとなるゲストハウスは散らかり放題かつ食事はお粗末というわけで、おおよそポアロの高級な趣味には合わないのですが、そこしか泊まれる場所がないので仕方がない。色々と失礼な目に遭いながら奮闘するポアロの姿が珍しくも楽しい。
更に、物語の三分の一くらいのところで『ひらいたトランプ』にも出ていた女流探偵作家のオリヴァ夫人が登場します。彼女は自作に登場する外国人の探偵についてひとしきり愚痴ったりして、作者クリスティ自身のポアロに対する気持ちが見えるよう。
ミステリとしてもよく出来ているのです。序盤において、些細な事実から事件のとっかかりを見つけるひらめきはいかにもこの作者らしい冴えが感じられます。また、捻りを持たせた解決編は読み応えがあり、真相の意外さや奥行きも充分。特に、第二の殺人の大胆さには感心するしかない。
その一方で、伏線に乏しい感はあるかな。ポアロが発見した決定的な手がかりが伏せられているのは厳しい。
展開は地味ですが、実はトリッキー。作品全体としても、いつものクリスティとは一味違ったテイストでありましたよ。
2015-01-03
レイモンド・チャンドラー「高い窓」
二年おきくらいで出る、村上春樹訳チャンドラー。
『高い窓』はチャンドラーの長編のうちでは、継ぎはぎ感がなく、枝葉のエピソードも少な目であって、筋道が比較的につかみやすい作品だと思う。一方で、マーロウ自身が窮地に追い込まれることがないので、サスペンスは薄い。
全体としてはまとまりがいいのだけれど、それがかえって地味な印象を受けるかもしれない。
まあ、今更それがどうした、なのだが。
ある種の小説ではまず文体であって、内容はその次になる。そして印象的な情景を描くことは、プロットを首尾一貫させることよりも優先される。もし展開を追うことばかりに気をとられていれば、何も起こらない、例えば徐々に町が夕暮れに覆われていくだけの描写などは、無駄な部分に思えるかも。
「あなたがたの問題は」と私は言った。「何でもないことをすぐ謎めいたものにしてしまうことだ。パンを一切れ齧るのにも、いちいち合言葉を言わなくちゃならない」
謎解きの妙を期待してチャンドラーを読む人はあまりいないだろう。トリックといえるものがなくとも事件が錯綜して見えるのは、単に誰も彼もが嘘を吐き、そこそこ力を持つ人物はそれを使ってもみ消しにかかるからだ。
この作品の解決も、当て推量と思いつきの末に辿り着いたようなもの。だが、今回読み直してみて、華麗な比喩や自己愛の表出が控えめである分、謎と意外な解決というミステリの形式が物語そのものの奥行きに大いに与っているという印象も受けた。
久しぶりに時間に余裕を持って、じっくりと読んだ。これはそういう本だ。
あと、今更ながら村上訳の日本語としてのこなれは凄いね。
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