2022-02-05
マイケル・イネス「ある詩人への挽歌」
1938年長編。
ところはスコットランドの寒村、古城の主で地主でもあるガスリーは吝嗇で変人、他人を寄せ付けず、村人からは嫌われていた。そんなガスリーが事件性のある状態で亡くなった。
──というお話が、章によって書き手を入れ替えながら展開する。村の古老、都会から迷い込んできた若者、事件関係者に雇われた弁護士、そしてジョン・アプルビイ警部。また、この作品では書き手が変わるとともに、読み物としての調子も大きく変化していく。
英国新本格というと教養を感じさせるアイテム、ゆるいユーモアや余裕ある語り口、なんてところが特徴だと思うのですが、わたしは、それらの総体からなんとなく、饒舌な印象を受ける。キャラクターの科白が多いということではなく、描写や説明にしても(枝葉を含めて)いろいろ書けてしまう。
その饒舌さが特に良く出ているのが最初の「ユーアン・ベルの語り」で、ガスリーが死亡するまでの行動やまわりの状況が綴られているのだが、ここがちょっと進みにくい。語り口自体に古典の引用をひっかけたところがあるのはいいとして、語られる内容の時系列が行ったり来たりする。また登場人物が多く、ベル老はそれら人々の体験を伝聞として語るのだが、事実と単なる妄想、噂話が混在していて、それらのどこまでが本筋と関係するのかが掴みづらい。情報が整理できないのだ。
もっとも、翻訳のおかげでこのパートはかなり読みやすくなってはいるようだ。スコットランドの方言がきつくて、原文で読んだ乱歩は全く意味が分からなかったそうだが、英語圏の読者の感想を見ても「凄くわかりにくくてイライラした」、「途中であきらめそうになった」、「何度もグーグルで言葉の意味を検索した」等と書かれてあった。
この100ページほどある最初の部分を過ぎると、あとはすっきりとわかりやすい展開になります。
「ノエル・ギルビイの書簡」では、それまで村とはなんの縁も無かった青年が運悪く事件に巻き込まれた体験を語る。ここからは視点が固定され、話の流れがぐっと良くなる。怪しい人物たちが住まい、ゴシック的な不気味さも漂う城に、意図せず留め置かれることになったギルビイ。彼の感じるサスペンスが読み物を駆動する力になっている。
そして、異様な状況のもと、城主ガスリーが亡くなるのだが、それは自殺とも他殺とも決定できないものであった。
ここまでで全体の半分過ぎくらい。
続いての「アルジョー・ウェダーバーンの調査報告」になると、また雰囲気ががらりと変わる。さながらガスリーの死とともに、まとわりついていた陰鬱さが拭い去られたようである。
そして、ここから怒涛の調査・推理編に突入。語り手のウェダーバーンは弁護士だが、警察の出した結論では説明できない不可解な点に着目し、意外な真相へとたどり着くという大活躍ぶりを見せる。
これで事件は無事に解決したように見えた。
残り3分の1ほどになって、真の探偵役「ジョン・アプルビイ」警部が登場。ウェダーバーンの推理では見過ごされていた要素を取り上げ、全体の再検討をはじめる。さらに、このタイミングになってパズルのピースが追加されていき、やがてそれまでは関係がないと思われていた事実によって、事件全体の様相がひっくり返る。もっとも、決め手は推理とは別のところからもたらされるのだが。
ここでは生前のガスリーが抱えていた秘密が浮き上がってきて、再びゴシック的な雰囲気が戻ってくるのがいい。また、アプルビイの推理に対して、自分からみた解釈を述べる牧師の存在も効いている。
このあと、物語にはさらなる捻りがあって、これはもしかしたら予想できる類のものかもしれない。
しかし、ある登場人物の一言が(伏線が張られていないこともあって)全く意外な事実を明らかにする。
いやあ、面白かったです。推理の楽しみもちゃんとあるのだけれど、後出しの事実で読者を引っ張り回して、最後には良くできたほら話のようにうまいこと収拾がつく。
なんだか知らないが、ちゃんと結末に救いのようなものがあるのも気持ちがいいですわ。
2022-01-29
Small Faces / Live 1966
4、5年ほど前、スモール・フェイシズのファンの間で話題になったペーパーバックがある。フランスで出たものでタイトルは「Smalls」。これには二枚のCDが付属していて、ひとつはスモール・フェイシズの未発表ライヴ音源、もう一枚にはメンバーの後年になってからのインタビューが収められている。
ライヴ音源として収録されているのは、1966年にベルギーのトウェンテイ・クラブというところで行われたものだ。くだんの小屋では日々行われる演奏を4トラックで録音する習慣があったと。それらのテープは最終的には廃棄されてしまったわけなのだが、そのうちスモール・フェイシズのものをある人物がサルヴェージしていて、「Smalls」の作者はそのコピーをもらっていたということだ(このいきさつがどれくらい本当なのかはわからないが)。
「Smalls」はアマゾンでも取り扱いがあったのだけれど、少々値が張る上に、フランス語のペーパーバックなんて読めやしない。欲しいけどなあ、と思ったまま数年が経過。すると昨年になってケニー・ジョーンズの肝入りというかたちで、そのライヴが単体で公式発売に。それが「Live 1966」というわけです。プロデューサーはこれまでもスモール・フェイシズのリイシューを手掛けてきたロブ・カイジャー、あとオーディオ・レストアにはパグワッシュにいたトシュ・フラッドがクレジットされています。
なお、スティーヴ・ホフマンのフォーラムによれば「Live 1966」のソースとなっているのは「Smalls」付属ディスクと同じデジタル・データで、それをブラッシュアップしたものではないかとのこと。
気になっていた音質は、もともとプロフェッショナルなレコーディングではないし、テープの劣化も進んでいるようで、そんなクリアとは言えないし安定もしていないが、時代を考慮すれば十分楽しめるレベルにあると思う。
そして、肝心のパフォーマンスはというと、これが極上。デッカでのファースト・アルバムに記録されていた音楽が、さらに解き放たれたような印象だ。分離の悪さが却ってバンド一丸となっているような雰囲気にも結びついている。
何よりスティーヴ・マリオットがやはり、ただものではない。そのステージの支配力は明らかだし、スタジオ・レコーディング同様、思い切りシャウトしてもピッチを外さない。ものが違う、という感じ。
例えば「Got Live If You Want It!」や「Live At Kelvin Hall」、あるいは「Rhythm And Blues At The Flamingo」なんかに匹敵するグレイトなドキュメントだと思うよ、これは。
一曲目がニューオーリーンズのR&Bヒット "Ooh Poo Pah Doo" で、ボーカルをとるのはロニー・レイン。それで盛り上げておいて二曲目からマリオットが歌う。彼らのファースト・アルバムでも、まず最初にカバー曲である “Shake” をロニー・レインが歌っていたのは、こういうステージのパターンを踏襲していたのかな。
2022-01-16
有栖川有栖「捜査線上の夕映え」
火村英生ものの新作長編。帯には「火村シリーズ、誕生30年!」とあります。ほぼリアルタイムで読んできたので、まあ、そんなものか、とは思うのだが、一方で、作品内での作家アリスはまだ三十四歳のままであることに、ちょっと驚く。今の感覚では、三十四歳にしてはずいぶん大人であるね、と。
事件は一見、地味でありふれた殺人事件。その実、複雑な時間割とそれによって成り立つ鉄壁のアリバイが立ちふさがる。さらに、死体はスーツケースに詰められていたときて(有栖川版『黒いトランク』か? と思いそうになった)、犯人の行動としても不可解なものがあり、捜査は難航。
関係者・容疑者からの聴取・尋問、捜査会議が繰り返される展開が続き、データは集まってくるものの決め手になるようなものがない。停滞により雰囲気も重くなってくる。
それが後半過ぎになって、物語が少し違うモードに入る。長年の読み手からすると、ああ、ここで何かが起こるんだな、という予感がする。そしてしばらく読み進めると案の定、しかし思いもよらない方向での事実が示されるのだ。見えない犯人ならぬ見えない関係者。火村が「泳がせる」という言葉を使ったのは、この意味で正しい。
最後にたどり着いた解決は複雑なものだ。先に真相に気付いた人間を観察することで、搦め手から細部に肉薄する。普通の謎解きミステリならそんな微妙なところまで判るものだろうか、と白けそうではある。しかし今作では、犯人の行動ひとつひとつに対して心理的な洞察がなされることで、説得力を持って読ませるものとなっていると思う。
個人的には犯人は何故そこまで危険な行動をとりえたか(446ページ)、という部分に唸りました。
物語としては臭くなりそうなところを、ギリギリのところで断ち切って綺麗な形に着地した印象。火村の「俺が名探偵の役目を果たせるかどうか、今回は怪しい」という科白の真意も、実にいい落としどころだよねえ。
2022-01-10
フィリップ・K・ディック「逆まわりの世界〔改訳版〕」
1967年長編。
作中の時代は1998年の近未来。1986年、ホバート効果によって、人間の成長は逆行し始めた。死んでしまったものが蘇り、日々若返っていき、やがて胎内へと戻る。食物を口から吐き出し、かわりにソウガム──はっきりとは書かれていないが、排泄物──を取り入れる。
主人公セバスチャンはヴァイタリウム商、葬儀屋のさかさま版のような仕事をしている。息を吹き返した死人を見つけ、墓から掘り出し、手当をしたのちに売る。彼自身も生き返った人間、老生者である。
ある夜、セバスチャンはカリスマ的な宗教指導者が復活しかけていることに気付く。しかし、その復活はある種の人々にとって歓迎できるものではなかった。かくして、その肉体の所有を巡って複数の勢力の抗争が勃発する。
キャリア後期作品を思わせるような神学、宗教的な要素も多く、それらの押し込み方にはやや強引な感じがあります。けれど、ディック独特のガジェットを交えたアクション劇で展開が動き続けるので、とりあえず読まされてしまう。
で、物語全体がファンタスティックな意匠をとりながら、最後にはひどく救いのない、生臭い所に着地する。真理などクソだ、パワーゲームや刹那の情動の前には意味をなさないという諦観が残るのだ。
ディックの内側で作家性を誠実さが上回ってしまった、と解釈することもできるけれど。
SFとしての設定は結構ガバガバだけれど、詰め込まれたアイディアとストーリーテリングの良さ、弛まないテンションで押し切ってしまえるのは、さすがは脂の乗った時期のディックではありますが。
『ユービック』への過渡期、というところでしょうか。
2021-12-18
アンソニー・ホロヴィッツ「ヨルガオ殺人事件」
元編集者で今はギリシャに住むスーザンのもとに、イギリスから老夫婦が訪ねてきた。彼らが所有するホテルで8年前に起きた殺人事件にかかわることだという。事件は既に解決していたのだが、最近になって夫婦の娘であるセシリーは真犯人が他にいることに気付いたそうなのだ。しかし、そのことを父親に告げた直後、彼女は行方不明になってしまう。そして、セシリーが真相に気付くヒントとなったのが、スーザンが担当していたアラン・コンウェイの作品『愚行の代償』であった。
『カササギ殺人事件』の続編で、英本国では2020年発表。
解決したはずの殺人事件と、その真相を知ったと思しき女性の失踪。ここを取り出せばありがちな設定である。だが、作中作となる『愚行の代償』が、作中の現実レベルで起きた事件についての取材をもとにして書かれ、さらにはその真犯人を示すような記述があるらしい。
英国に戻ったスーザンは関係者たちの話を聞いてまわる(時にあからさまな敵意を受けながら)。顔のない死体やあまりに怪しすぎる関係者など、ミステリ的な引きには事欠かないのだが、話のテンポがあまり良くなくて、読んでいてたるかったです。
スーザンが『愚行の代償』を再読し始めるのは上巻の300ページほどを過ぎてからだ。作中作『愚行の代償』は1950年代を舞台にしたクラシック・ミステリのパスティーシュ長編で、個人的にはこの部分を楽しみに読み進めていました。プロットの流れといいキャラクターの立ち方といい、オリジナリティには乏しいけれど、外枠の物語よりも魅力的です。
この『愚行の代償』だけを取り出して見ると、犯人はとても分かりやすいのですが、細部の辻褄合わせや動機の持って行き方はうまくいっていて、解決シーンは読んでいて楽しかった。クリスティ作品でいうと中くらいのレベルには達しているかと。
さて、『愚行の代償』を読み終わって、現実の事件のヒントになるようなものがあっただろうか? と考えてみるが、そもそも作中で扱われている事件とスーザンが追いかけている事件には共通点は乏しく、セシリーがどこを読んで「すぐ目の前にあって──わたしをまっすぐ見つめかえしていたの」となったのかも見当がつかない。
ただし、この『愚行の代償』パート以後、話の展開が一気に良くなる。イベントが畳みかけるように起こり、その末にようやくスーザンは真実に思い当たるのだ。
最終的な解決シーンは、名探偵、みなを集めてさてと言い、というやつだ。
スーザンの推理は細かい事実を結び合わせて解釈を当てはめていくもので、確固たる証拠には乏しく、これで有罪にはできないでしょう。あと、『愚行の代償』に隠されたメッセージから即、犯人に結び付けるというのは飛躍があるのではないか。さらに言うと、犯人に思い至ったセシリーが何の警戒もせず、普通に犬の散歩に出ているのはおかしくないかしら。
もっとも、かなり多くの手掛かりがあるべきところに収まっていく様と、ダブルミーニングの連打はとても迫力があり、これで気持ちよく押し切られてしまう。
大きな驚きはないけれど、細かいところまで考えられたミステリだと思いました。普通に面白かったです。
まああれだな、期待が大きすぎたかな……。
2021-11-28
Bruce Springsteen and The E Street Band / The Legendary 1979 No Nukes Concerts
昔、海外のフォーラムを見ていたら、ブルース・スプリングスティーンのライヴ・パフォーマンスのピークは1978年だ、という意見が多かったような覚えがあります。'78年といえばアルバム「Darkness On The Edge Of Town」がリリースされた年であり、それをサポートするツアーが年内いっぱい行われていました。
そして翌年になると、スプリングスティーンは次作の制作にとりかかり、ライヴはしばらく行われないようになりました(プライヴェートなパーティ等で3時間、演奏したという記録はありますが)。その1979年でも例外となるのがMUSEベネフィット・コンサート、ノー・ニュークスのイベントで、スプリングスティーンは9月21、22日の二日間に出演しています。この時の音源は公式で配信されていましたが、今回、二日分の演奏を一回のショウのかたちに編集したものが映像とCDのセットで出ました。それが、「The Legendary 1979 No Nukes Concerts」です(このリリースに伴い、二日分のライヴの配信は引っ込められたよう)。
音の方は一部の曲を除いてマルチトラックからボブ・クリアマウンテンがミックス、マスタリングはボブ・ラディックが担当。聴いてみるとそこまでクリアないい音だ、というほどではない。元々の録音の限界でしょう。
単独のコンサートではないので、約90分とこの時期のスプリングスティーンにしてはかなり短い時間にまとまっています。その分、強い曲がばんばん演奏されているのですが、まだ制作中のアルバムから “The River” と “Sherry Darling” が披露されているのは、曲に自信があったからか。
また、元になった二回のセットリストでは本編は同じでアンコール後のみ異なっており、今回の編集では全部の曲目を入れた結果、全体の時間に対するアンコール部分がやたら長くなっています。カヴァー曲ばかりなので、さすがに違和感がある。
肝心の演奏はブランクなど関係ない、むしろ短期決戦なので最初からぶっ飛ばす、という感じの力の入ったもの。ただ、"Thunder Road” のタッチがすこし粗いかな、という印象は受けました。
CDの音だけ聴いていてもいいのですが、やはり映像が付くと違います。もっとも画自体はそこまで綺麗ではなく、これならブルーレイでなくても良かったかな。甘めの映像にちゃんとした音が付くと、ちょっと人工的というか、合成感がありますね。単独の映像作品として売るにはすこしクオリティが足りなかったからCDと抱き合わせたのかもしれません。
もっとも、その辺りは見ているうちに気にならなくなっていきます。”Rosalita (Come Out Tonight)” でのスプリングスティーンとクラレンス・クレモンズの絡みなどは映像があってこそだし、”Jungleland” 最後の叫びの恰好良さといったら。あと、ゲスト(ジャクソン・ブラウン、トム・ペティ、ローズマリー・バトラー)の姿がちゃんと認識できるのは大きい。また、”Detroit Medley” での世界一のパーティ・バンドとしての楽しさなど、結局、夢中になって見てしまうな。
2021-11-06
The Beatles / Let It Be
かなり遅くなりましたが、スーパーデラックスなやつです。
本来は昨年にリリースされる予定だったのが、パンデミックの影響で一年ずれました。その間に中身も変わって、当初はルーフトップ・コンサートでCD一枚ある予定だったのだけれど、なくなっちゃいました。ディズニーに譲ったのでしょうか。
ディスク1はアルバム「Let It Be」のニュー・ミックス。フィル・スペクター版を元にしながら現代的な音にした、といって間違いはない。けれど雰囲気はかなりドライになっている。基本がシンプルな録音だから新たな発見とかはないかな。若干ベースがやかましいけど、オリジナルのアップグレイド版ではなく、そもそも別物としてとらえるなら悪い出来とも思わないです。バンドらしい恰好良さが強調されているのでは。
元々がにっちもさっちもいかなくなっちゃったから、プロデューサーに素材を任せて、これでなんとかして、って経緯でできたアルバムだ。いっそのこと、ベスト・オブ・ゲット・バック・セッションで一枚でっちあげてもよかったかもしれない。怒られるのだろうね。
ディスク2、3はアウトテイク集。ディスク2は “Across The Universe” 以外の「Let It Be / Get Back」収録曲を中心にまとめられていまして、アルバムの別ヴァージョンのような趣。ディスク3では「Abbey Road」収録曲やメンバーのソロになってから発表される曲のごくラフなテイクも収められており、高音質のブートのようではあります。
まったく新しい音源が発見されたわけではないので、そんなに聴いていてテンションが上がることはないです。けどオフィシャルだし、音もいいので機嫌よく流しておけるものになっております、価格のことを考えなければ。
問題はディスク4。すでに話題になっているように日本盤とそれ以外のものでは使われているマスターが違います。日本盤は2019年に作成されたマスター、それ以外の国では2020年製のマスターで、これはどうやら日本側のミスらしいのですが、そのことを日本のユニバーサルミュージックは認めていない模様。
その日本盤では正真正銘の「Get Back」、そのグリン・ジョンズ1969年ミックスが聴けます。わたしが買ったのもこっち。オフィシャル化「Get Back」、それ以上でもそれ以下でもないのですが、何か一応の決定版が出たようで、これだけで長年の課題のひとつが片付いた錯覚があるな。
一方で海外盤は、ファン・フォーラム等によると1969年ミックスを謳いながら実態は‘70年ミックスをベースに、所々’69年ミックスをつないであるもの(”Teddy Boy” に関しては‘70年ミックスが存在しないので、’69年ミックスをそのまま流用)。音質は海外盤の方が良いそうなのですが、表記と中身が違うのは気持ちのいいものではない。まあ、わたしは実際にそちらを聴いてないので、わかんないですけど。
ディスク5は4曲入りEP。なんだ、この中途半端なのは、と最初は謎だったのですが、“Across The Universe” と “I Me Mine” は「Get Back」グリン・ジョンズ1970年ミックスからのもの。つまりディスク4に使わなかった分をこちらに回した、ということになる。
あとは非アルバム曲である “Don’t Let Me Down” と、“Let It Be” のシングル・ヴァージョンのニュー・ミックス。このあたりの基準はよくわからない。だったら他にも入れる曲があるでしょう、と。
最後はブルーレイ。アルバム「Let It Be」のニュー・ミックス及びサラウンド、そのハイレゾです。“Don’t Let Me Down” と “Let It Be” のシングル・ヴァージョンも入れろよ、と思います。
うちにはサラウンド環境がないので、2チャンネルのものしか聴いてないのですが、CDのディスク1と比べるとレンジが広いせいか、こちらのほうが断然、ナチュラルで疲れないすね。聴くならこっちだわ。
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