2024-04-30

劉慈欣「三体Ⅱ 黒暗森林」


圧倒的に科学力で上回る三体文明、その侵略艦隊が地球に到達するのは四百数十年後。そして三体世界から侵入してきた智子(ソフォン)によって、地球上の出来事は常時監視され、三体艦隊への対抗策は筒抜け。それだけでなく科学研究も妨害され、大きな成果は見込めない状態に。人類が起死回生の策として開始したのが、面壁者作戦だった。
それなに?


「三体」三部作、その第二作目。前作と比して分量が増えただけではなく内容全体にかなりスケールアップしております。作中の時代は数百年の幅をもつものとなり科学技術も進歩、舞台は宇宙空間にまで広がり、それらに伴いイマジネーションも飛躍と(曖昧な言い方ですが)SF度が高くなっています。
プロットも対・三体世界だけにとどまらない、さまざまな状況における決断が俎上にあげられていて、ただ敵と戦うだけとは違う苦難が描かれます。

そしてこの、大きくなったスケールを支えるように、さまざまなタイプの傑出したキャラクターが登場。その中でも物語の中心人物となるのが大学教授、羅輯らしゅう(ルオ・ジー)。この羅輯、研究に対して熱心ではないし、自分の死後の地球がどうなろうと関心はないという、およそ感情移入したくなる人物ではない。これだけの大部の作品なのでリーダビリティの濃淡はあるのだけれど、特に羅輯に馴染むまでは乗りにくい。
で、こいつが半ば罠に嵌められるようにして、地球の命運を左右する存在となってしまう。なぜ彼でなければならなかったのか、というのは作品の大きな謎のひとつであります。

また、侵攻してくる三体世界に対抗する活動は国連と軍隊に主導されるのですが、そのうち宇宙軍で要職に就く章北海しょうほっかい(ジャン・ベイハイ)が今作における、もうひとりの重要人物です。優秀な軍人である章北海は自分の心のうちを明らかにせず、目的のためであれば違法行為すら厭わない。途轍もなく毅然としたこの人物もまた、ひとつの謎です。

何しろ先を読ませない展開が肝なので、具体的なことは書きませんが、はったりの利いたアイディアが実に愉しく、特に極秘裏に計画を進める面壁者とそれを暴こうする三体協会の対決はエスピオナージュばりの面白さ。
また、純粋なSFとしても下巻における宇宙空間での展開が続くパートはスリリングで読むのを止められなかった。

そして何より、もはや地球は絶体絶命となった終盤、羅輯によってさまざまな伏線が回収される場面が素晴らしい。本筋とは直接、関係のないように思われた宇宙での出来事がヒントとなって還ってくるのにはしびれました。

ハードSFとしての奇想と、まるで謀略小説のような仕掛けが混然一体となった面白さ。長さをあまり感じさせない読書になりました。第三部は更に話が大きいらしいのですが、もうスペースオペラになるのでしょうか。

2024-04-21

横溝正史「悪魔が来りて笛を吹く」


1951~53年に雑誌連載され、‘54年に単行本化された長編。作中の出来事は昭和22(1947)年になっています。これは同年、実際に起こった帝銀事件を、すぐにそれとわかる形で作品に取り込んでいるのがひとつの理由です。また、交通事情がまだあまり整理されていない状況もプロットに利用されているのかも。

主な舞台は東京、扱われているのは作者得意の一族内で起こる事件で、アクの強いキャラクターが多数いる中、密室殺人が発生。その手段はともかく、関係者の誰にもしっかりとしたアリバイは存在しない。そして、捜査の過程で浮上するのは既に亡くなっているはずの人物であった、と。
これまでの横溝作品でも何度か顔の無い死体を使ったプロットがありましたが、今作では死体の身元確認もしっかりとされた人間が、実はまだ生きているのではないか、という興味が強調されます。
そして、題名にもなっている「悪魔」とは何なのか。

警察や耕助に対して明らかに隠し事をしている家族たちもあって、捜査は難航。だが、故人の遺書にまつわる状況のツイストで、事件の様相がみるみる変わっていく。また、それをきっかけとして東京から神戸、淡路島へと話の規模が広がっていくのも巧いところ。退廃的な人間関係が明らかになっていき、複雑さも増していくばかり。

フーダニットとしては複数の殺人事件について、いずれ確固とした証拠は存在せず、推理は緩いと感じます。ですが一見、手の付けようの無さそうな全体図が、ある意思に沿って読み解くことで綺麗に再構築されていく様は見事。誤導にもう少し工夫があればよかったかも。
また密室の謎も、トリックそのものは置いても、それを補強する小技や(なぜか解説はされないものの)伏線が効いていて、案外悪いものではないと思います。

事件の構図のダイナミックな変化と、ストーリイテリングが冴えた一編かと。

2024-04-06

ヤーン・エクストレム「ウナギの罠」


「なぜ被害者の遺体は、あのウナギの罠に隠されたのか? なぜ犯人は、あらゆる手間をかけてまで、密室の謎とも呼ぶべき難問を創り出そうとしたのか?」

舞台はスウェーデンの田舎町らしきところ。権力をもつ地主がいて、傲慢で誰からも好かれてはいないのだが、その機嫌を損ねると生活が立ちいかなくなりそうな人々は何人もいる。この地主と娘ほど年の離れた女性との結婚が発表されるとともに、さまざまな思惑が動き出し、その夜のうちに殺人事件が起こる。


1967年長編。ドゥレル警部という、どうやらシリーズ・キャラクターが活躍する謎解きものです。カーばりの不可能犯罪と聞いて読み始めたのだが、事件が起こるまでの人物描写が結構、濃い目であって意外な感を受けた。そのあたりは、さすがに1960年代の作品ということだろう。もっとも、合間にキーとなる人物の不可解な行動をまぶして、ミステリとしての興趣を保つことも忘れてはいないが。
で、宣伝通りに密室の謎があるのだけれど、事件現場が不可能状態にあることが明らかになるのは、実は物語の後半なのです。それまではフーダニットらしく、犯行の機会やアリバイを巡っての捜査や議論が堅実に進められているので、密室はプロット上のツイストとしても存在しているのですね。
また、そもそも自殺でないことははっきりしているので、密室であることが分かったからといって捜査方針が変わるわけではない。確かに大きな謎がひとつ増えたわけではあるけれど。

怪しいやつは何人かいるけれど決定的な手掛かりはないし、密室の謎もあって頭を悩ませるドゥレル警部なのですが、作品が残り30ページくらいのところで突然、全部がわかってしまう。
そうして明かされる密室トリックは手が込んでいて、推理困難なもの。ただ、それに使われる小道具の配置がとてもセンスいい。ああ、あれはここで生きてくるのか、という感興があります。また、現場を密室にした動機もしっかりとしていて、はっきりとは書きませんが、不可能犯罪とフーダニットが有機的に構成されているのですね。

地味なミステリですが、解決編は相当に面白かった。同作者の『誕生パーティの17人』は問題のある(らしい)英訳からの重訳だったそうなので、そちらもスウェーデン語からの新訳で出し直してほしいものです。

2024-03-24

劉慈欣「三体」


文庫化されたのを機にわたしも手を出してみました、劉慈欣りゅうじきん(リウ・ツーシン)の『三体』。最初の日本語版が出たのは2019年ですが、中国での雑誌連載が2006年、単行本化が2008年初頭と思っていたより昔の作品ですね。
現代SFにはすっかり疎くなっているので(しかも600ページ以上あるし)、恐る恐る読み始めましたが、そんなに難しくて投げ出してしまうようなものではなかった。大層に売れただけのことはあって、しっかりエンターテイメント小説ですな。


三部構成の第一部「沈黙の春」は60ページほど。1967年、知識人への迫害が強まる文化大革命下の中国で、過酷な運命に翻弄される女性研究者の物語。最後の方で、おおう? という謎の展開がありますが、まあ、このパートは伏線というか前振り。

それから40年以上たった現在の物語が第二部「三体」。これが300ページくらい。世界中で科学者たちがさまざまなトラブルに巻き込まれ始めていて、主人公である汪淼おうびょう(ワン・ミャオ)もまた、説明が付かないような怪現象〈ゴースト・カウントダウン〉にみまわれる。これらの事件には影で大きなひとつの力が働いているらしい。
一方で汪淼は、およそ娯楽には興味のなさそうなひとりの科学者がやっていたオンラインVRゲーム、「三体」に目をつける。これはただのゲームではなさそうなのだ。明らかに相当な資金がかけられているのだが、どこの誰が作ったものかも分からない。
汪淼は現実世界で次々と起こる事件の謎に対応しながら、並行してゲーム「三体」の正体を探っていくのだった。

この第二部はスリリングな現実パートとファンタスティックなゲーム・パートが交互に展開しますが、不安を感じつつ闇の中を手探りで進むような汪淼に対して、ひたすら実務的かつ乱暴だが鋭い勘をもつ警察官、史強しきょう(シー・チアン)の存在が頼もしい。
また、ゲーム「三体」で汪淼は、ログインするたびに異なる世界へと送り込まれるのだが、それぞれのエピソードがアイディアを凝らした作中作として読めます。特に秦の始皇帝と、ニュートンやノイマンによる「人列コンピュータ」はホラSFとして抜群の破壊力であります。

果たしてVRゲーム「三体」は何のために作られたのか、また、研究者たちを襲う事件とはどう繋がるのか。
残り220ページくらいが第三部「人類の落日」で、破滅物SFのタイトルだよね、これ。陰謀を企む組織と意外な首謀者、その背景にある恐るべき事実が明らかになっていく。ここから(薄々感じていたものの)一気に話のスケールが大きくなります。
終盤近くでの実験のパートがやや難しそうに感じますが、良く読むとかなり豪快な展開で。ここへ来て炸裂し続ける奇想がたまらない。


プロットだけみると、むしろ王道というかクラシカルなSFですね。地球外生命体もそんな突飛な有り方ではないし。いや、現代においてこのデカい話を正面から書ききったことが凄いのだな。
大部ですが、ダレ場なく楽しめました。

2024-03-12

アントニイ・バークリー「最上階の殺人」


四階建てフラットの最上階に住む老婆が殺された。現場は相当に荒らされ、被害者が貯め込んでいた現金も持ち去られていた。スコットランド・ヤードのモーズビー警部はプロの犯罪者によるものとして捜査を進める。だが、偽装工作の跡を見て取った探偵小説家ロジャー・シェリンガムは、同じ建物の住人たちに疑いの目を向けるのだった。


1931年に発表された、シェリンガムが登場する長編としては七作目の作品。
とりあえず、始まりはいつもと同じような感じ。警察は事件を平凡なものとみなすが、その捜査の粗に目を付け、全ての疑問点がうまく当てはまる説をなんとか拵えようとするのが我らがシェリンガム。その割に容疑者の絞り込みは推理ではなく、印象だけで進めてしまう。この辺りは結局、警察のやり方と五十歩百歩。ただ、シェリンガムの殊更に物事をややこしくする考え方のほうが、圧倒的に楽しいのは確か。

事件はひとつしか起こらないけれど、小さな謎が積み重なっていき、あれやこれやの推理の種には事欠かない。ユーモア味たっぷりの愉快な語り口に、何だったら恋愛要素もあって、軽快に読み進めていけます。
シェリンガムは犯罪に調査を進めていくうち、ある人物に目星をつけるが、それとは反するような事実につき当たり、いったんは手詰まりに。だが、ちょっとした証言によって、それまでの推理の前提が崩れていく。ここから俄然、シリアスに。

解決編はなかなかドラマティックであって、引き込まれずにはいられません。何しろ、色々な要素が気持ちよく嵌っていく。さらに、謎解き小説としては余分であった部分が、ここへ来て機能しているのは流石。
ただ、犯人のキャラクターを考慮するとトリックは手が込みすぎではないか。そして更に言えば、余詰めへの配慮が無さ過ぎる(もっともバークリイはそんなのばかりだが)。まあ、読んでいる最中は完全に手玉に取られていましたけどね。

細部を詰めず、余白を多くとることで可能になる推理の柔軟性を駆使するバークリイのスタイル、それが非常に大きな効果を上げた作品であります。当然、凄く面白かったっす。

2024-03-03

The Grays / Ro Sham Bo


米国産パワー・ポップ・カルテット、1994年の唯一作。今年で30周年ということになるな。
このグループは、ジェリーフィッシュを抜けたジェイソン・フォークナーがソロ・デビューする前に参加した、といえば通りは良さそうである。
アルバムの方はドラマー以外の三人が曲を書き、それぞれ自作を歌っていて、誰かしらリーダーによるワンマンというものではないように見える。ただし、フォークナーは後のインタビューで、あのレコードに収められている演奏の大半は僕がやった、とも言っている。どうも彼にとっては、あまりいい経験ではなかったようだ。


そのフォークナーの曲は、既に作風が出来上がっていて、他のメンバーのものと比べ、練度ではひとつ抜けているように思います。シングルになった "Very Best Years" もいいが、ベストは骨太なメロディをもつ "Friend Of Mine" かしら。
ただ、バンド・サウンドがときにヘビーに寄るところがあり、曲によってはそれが合っていないような気がします。このひとはやっぱりソロが良かったのかも。

ジェイソン・フォークナーをグループに誘ったのがジョン・ブライオン。現在は映画音楽の制作や、他人のプロデュースなどが主な仕事だが、いまのところ一枚しか出していないソロ・アルバムが凄くいいのです。
で、そのソロ・アルバムには繊細で、メロウな手触りもあるのだけれど、ここではギター・ポップのスタイルに沿った曲を披露しています。"Same Thing" は凄くキャッチーだし、"Not Long For This World" もメロディのフックが効いている。また、ナイーヴな感じの歌声は既に独特の魅力を発揮しております。

そして3人目のソングライター/シンガーがバディ・ジャッジ。実はこのひとのキャリアが一番興味深いのだが、それは置いて。このジャッジさんの曲も、明解な "Everybody's World"、泣きの入った "Nothing" など荒々しさの中に英国ポップ風の味付けが生きていて決して悪くはないのだけれど、個性という点では一歩譲るか。


正直、飛び抜けた特長には欠けるのですが、細かいアレンジは考えられているし、楽曲自体にも良いものがあって、捨てがたい一枚です。

2024-02-24

横溝正史「女王蜂」


伊豆の沖にある月琴島育ちの美貌の娘、智子は18歳を迎えると義理の父親のいる東京の屋敷に引き取られることになっていた。だが、その日がくる直前に警告文が舞い込む。彼女が島を離れたなら、その前には次々と死人が出るだろう、というのだ。


1952年、金田一耕助もの長編。
設定や展開には、過去作品の再利用のようにみえるものがあって。とりわけ、地位ある人物の娘を射止めようとする野心家の若者たちの争いとくれば前年の『犬神家の一族』と一緒じゃん、と思ってしまう。
もっとも物語の雰囲気におどろおどろしい所はなく、むしろ都会的な印象。話の流れも実に滑らか。良いことかどうかはわかりませんが。色々な事件が起こっている割に、既視感もあってか読み物としてあっさりとした印象も受ける。

フーダニットとしては登場人物がそれほど多くない中で誤導を利かせ、なかなか尻尾を掴ませないし、大きなトリックはないものの、実にうまいこと拵えられている。作中の表現を借りれば「段取りがうまくついて」いるのだ。特に写真を巡る伏線や、「蝙蝠」に例えられる欺瞞(チェスタトンのいただきではあるけれど、用例はそんなに多くないのでは)がいい。
そして何より、関係者を集めた中、耕助が犯人を指し示した科白、そのダブルミーニングよ

一方で、連続殺人の見かけに対して、内実があまりにモダンすぎるのではないか。そのおかげで犯人の見当がつき難くなっているのだけれど、動機の説得力を弱く感じるかも。
特に納得しがたいのは、自分自身が遠い過去に犯した犯罪をわざわざ掘り返して「あれは事故ではなく、殺人だっただろう」と警告に使ったこと。結局、その秘密がばれそうだと思って更なる殺人を重ねたのだから、さすがに心理的に無理があるのでは。

派手なキャラクターや、いきなり拳銃が出てきたり、あるいは耕助が謎を解くことで更に死人が増えたりと、いわゆる通俗性も強いですが、脂の乗った時期とあってミステリとして細かい芸が楽しめる作品でありました。