2014-02-08
Lexia / Lexia (eponymous title)
フランス出身のコンポーザー/アレンジャーであるジョン・レクシアと男女のシンガーによる三人組、レクシア。彼らが1972年に米MGMよりリリースした唯一のアルバムで、おそらくLA制作。
所謂レア・グルーヴ界隈で話題になった作品だそうで、なるほどファンキーなものやジャジーな味付けも感じられますが、全体としてはとても素敵なサンシャインポップのアルバムですよ。
人気曲 "Good Morning To You" や "Lovelight" は聴いていて胸躍る、実にキャッチーで華やかな仕上がりでありますが、その他も佳曲揃い。作曲は全てジョン・レクシアによるもので、'60年代的なフックが効いた良いメロディが多いのですね。
そしてサウンドはというと、管弦を豪奢に使いながらもシャープな手触りのもので、格好良い。アレンジも細やか、曲調を多彩に変化させていくところはボブ・ドロウが手がけたスパンキー&アワ・ギャングを彷彿させます。また、ミュージカル的な展開の曲ではさながらフィフス・ディメンションのよう。
唄のほうは女声リードが良いです。張りがあって伸びやか、でもしつこくない美声であって。対して男声のほう(このひとが歌詞を書いているのですが)はやや地味かな。しっとりした曲には合っているけれど。
'60年代後半のLAポップの流れを汲みつつ、ソウルミュージックの要素をプラスした感じ、と言ったらいいか。洗練を感じさせる好盤だと思います。
2014-02-03
カーター・ディクスン「殺人者と恐喝者」
催眠術の実演中、意識の無い被験者を道具にした殺人が起こった。だが、おもちゃであった凶器を本物と摩り替えることは誰にも出きなかっはず。この不可能状況に対して、自伝を口述中のヘンリ・メリヴェール卿が立ち上がった。
相当に難度の高そうな事件である一方、怪奇色は無いのでお話はすっきり、すらすらと読み進めてしまえる。誰にも犯行が不可能だったように見えるのなら、誰が犯人であっても不思議は無い。つまりはどうやって犯罪を実行できたのか? の一点勝負。
ミステリらしい雰囲気は充分な上にコミック・リリーフも冴え、いやあ面白いよ。終盤までは。
真相は大胆かつ衝撃的なものでありますが。
不可能トリックはアレだし、伏線も弱い。
また、もうひとつ、大きな錯誤を仕掛けているのだけれど、うーむ。大抵の読者は当該箇所にひっかかりを覚えつつも、読み進めるうちにそのことを忘れてしまうでしょう。
しかし、この犯人の末路はなかなかに凄いな。
そもそも、どこまでが本気でどこからが冗談なのかが分かりにくいのですが、まあ、ファンなら愉快に読める豪快な作品です。
なお麻耶雄嵩の解説はネタを割った上でのもので、ミスリードの作法など実作者らしい視点が面白かった。
2014-02-02
Timmy Thomas / Why Can't We Live Together
1972年リリース、寒い季節になると聴きたくなるアルバム。昨年、英BBRからリイシューされまして、シングル曲/ヴァージョン3トラックのボーナス追加です。
ブックレットにはティミー・トーマス本人のコメントが盛り込まれているのですが、それによれば、よく「プリミティヴなリズム・ボックスを使用して」などと書かれているのは正確ではなく、あれはオルガンのオプション機能を使ったものだそう。レコーディングはオルガンとヴォーカルのみで行なわれたわけで、つまりあのサウンドは(スライの「Flesh!」のように)密室的な、あるいは宅録的なスタジオワークによるものというよりは、日頃ライヴで演っていたスタイルをそのまま持ち込んだもののよう。ちょっと認識を改めましたよ。
さて、そのシンプルな演奏はまるでデモのようでチープといえばそうなのですが、生々しさにも繋がっています。弾き語りに近いためアレンジが限定されているのは確かなものの、オルガンが多様な演奏でフォローすることによってアルバム一枚聴かせるものになっているかと。フットベースもくっきりと録られていますしね。
2曲含まれたインストも幅を出すのに貢献していて。"The First Time I Saw Your Face" ではメロディーを生かしながらじっくりと、逆に "Funky Me" はアルバム中唯一テンポ早めで、アグレッシヴな曲調。
また、どうしてもユニークなサウンドの方に気がいってしまいますが、唄のほうもしっかりしたもので。ボーナス収録の "People Are Changin'" を聴くと若干田舎臭い感じも受けるのですが、アルバム本編では良い感じの抑制が利いたものになっています。
改めて聴いてみて気付いたのですが、収録されているオリジナル曲は全て社会的メッセージを持つものなのですね。にもかかわらず、全体に漂うレイドバックした感覚が魅力かな。
2014-01-26
Squeeze / Cosi Fan Tutti Frutti
スクイーズのアルバムというと、よく挙げられるのが「East Side Story」(1981年)ですが、個人的には最初の解散・再結成後からの「Cosi Fan Tutti Frutti」('85年)、「Babylon and On」('87年)、「Frank」('89年)辺りの方が好みであります。
以前からあったいかにも英国らしい捻りの利いたセンスに加えて、ソウルミュージックの要素が強まることで、音楽がより懐の深いものになっているように思うのです。そして、そのソウル的な要素を肉体化・消化するのに大きく貢献しているのが新たに加入したベーシスト、キース・ウィルキンソンではなかったかな。
しかし、こう書いてきて何だが、この「Cosi Fan Tutti Frutti」というアルバム、サウンド面ではいささか微妙なところがあって。プロデューサーのロリー・レイサムが原因かもしれないけれど、シンセの多用やドラムの音作りなど、ごてごてしていて、どうしたって時代を感じさせられる。
(モーツァルトとリトル・リチャードを掛け合わせたタイトルが象徴するような)スクイーズの他のアルバムには無いドラマティックなスケール感を実現してはいるのだが、バンドとしての姿が見えにくくなっているのも事実。
その一方で、彼らならではのポップソングはもうなんか、練り込まれ過ぎて凄いところまで到達しているように思う。オープナーの "Big Beng" はそもそも曲のキーがよくわからないし、終止感はどこに行ったのか、という。スモーキー・ロビンソンからのビートルズ、というメロディの変化といい、まさに爛熟の感。
他の曲でもアルバムいちキャッチーな "King George Street" やクリス・ディフォードの唄う "Break My Heart" などは、曲展開のねじれがエライことになっているにもかかわらず自然に聴かせてしまうだから、大したものだ。
決してスクイーズのベストの作品ではないとは思うのだけれど、ファンにとっては重要な一枚ではあることよね。偏愛、ちゅうか。
2014-01-20
Lou Courtney / I'm In Need Of Love
ルー・コートニーというシンガー/ソングライターの1974年、Epicからのアルバム。プロデュースはコートニーとジェリー・ラゴヴォイ。ラゴヴォイというと'60年代のニューヨーク・ディープ・ソウルにおける功労者、という存在なのだけれど、この作品は時代を反映した都会的でメロウなソウルです。
収録されている全曲がコートニー本人によるオリジナルで、これが良いメロディ揃い。転調を多用する作風のようで、それが曲に意外な奥行きをもたらしています。ちょっと展開が読めないものもあって、"Since I First Laid Eyes On You" なんて曲、僕はグレン・ティルブルックを連想しましたよ。
サウンドのほうはスウィートなものもファンキーなものもやり過ぎず、濃過ぎずの加減がちょうどいい塩梅で。その風通しの良さが展開をはらんだメロディを生かすように、うまく作用していますね。特に "I Don't Need Nobody Else" がクールで格好良いミディアムに仕上がっていて、ジョニー・ブリストルをも思わせます。
また、コートニーのボーカルはマーヴィン・ゲイ・フォロワーという趣のもの。本家ほどの強烈な色気こそありませんが、軽快なバックとの相性は申し分なし。
このひとは'60年代半ばから裏方としても活動していたようで、そのせいか、とても丁寧に作られているような印象です。
個性は控えめながら、その分、繰り返し聴くことで魅力が深まっていくような一枚かと。
2014-01-19
アガサ・クリスティー「五匹の子豚」
1942年のエルキュール・ポアロもの長編。16年前に起きた殺人事件を、遺族の要望によって再調査する、というもの。所謂「回想の殺人」のはしりですな。
今作の前にはトミー&タペンスとジェーン・マープルをそれぞれ10年以上のインターバルを経て復活させておりまして、この時期はクリスティの転換期のひとつであったのでしょうか。
タイトルになっている『五匹の子豚』とは、過去に起きた事件の関係者たち五人のことであり、再調査においては容疑者にもなる存在です。
ポアロは彼・彼女らから取材と偽って話を聞き出した上、更にそれぞれから見た事件の回想記を書いてもらう約束を取り付けます。同じ事件についての話が5回繰り返されるのだけれど、これがちっとも単調にならないのですね。関係者たちの意外な人間性が明るみになってくる、この過程が実に読ませるのです。ミステリとしても、それまで言及されていなかった手掛かりが少しずつ出てきて、油断ならない。
また、関係者のうちのひとりは真犯人であり、そうなると当然、彼もしくは彼女の回想記に本当のことは書かれていないわけで。
騙しの仕掛けは相当にシンプルなもので、これを土壇場まで底を見せずに引っ張ってこれるのは物語作りの巧さゆえ、でしょう。たったひとつの手掛かりによって全ての意味が変わってしまう、という趣向も断然好みです。
展開は非常に地味であって、クリスティをある程度読んできた人向きでしょうが、いやいや、おそろしく技巧的に書かれたミステリでありました。
2014-01-05
フラン・オブライエン「第三の警官」
フィリップ・メイザーズ老人を殺したのはぼくなのです――自らの著作を出版する資金欲しさに、腹に一物ありそうな雇人と共謀して金持ちの老人を殺した「ぼく」。事件のほとぼりがさめた時分に、隠してあった金庫を回収に向かったのだが・・・・・・。
出だしこそ倒叙ミステリめいていますが、かつてはポストモダン小説と呼ばれていたような、今ならファンタジーとして受け入れられるであろう作品。もともとは1940年に書かれたそうであって、現代の読者にかかればお話全体の秘密は最初の4、50ページほどで見当がついてしまうかも。
しかし、この作品において筋書きなど大した意味は無いようでもある。奇妙で現実感を欠いた展開はさっぱり脈絡が掴めないし、SFめいた仕掛けも多いのだが唯々ナンセンス。意味が通じてるんだかいないんだか良く分からない会話。語り手の「ぼく」は不条理な運命に翻弄されているにもかかわらず、決してすっとぼけた軽薄さを失わない。
また、「ぼく」が書いている本というのはド・セルビィという名の、ある物理学者の業績を分析したものらしく、物語には頻繁にそのド・セルビィ的な、万物のあり方や認識に関する馬鹿馬鹿しくも奇怪な理論が差し挟まれる。更にそういった箇所には、鹿爪らしい筆致ながら実にデタラメかつ脱線だらけの脚注が付されているのだけれど、それらも「ぼく」自身の手によって書かれているのではないか? と思えてくるのだ。
「あんたはいちごジャムがぎっしり詰まった家だって手に入れられる。どの部屋にも隙間なく詰めこんであるので扉が開かないほどだ」
結論やらテーマのはっきりしたものを好む人には合いそうにありませんが、奇想に溢れ、とても手の込んだ喜劇小説でありました。
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