2025-01-03
「有栖川有栖に捧げる七つの謎」
若手作家7人による有栖川有栖トリビュート作品集。緩いものかと思いきや、みなさん本気。純粋にミステリ短編として力のこもったものが揃っており、かつテイストもさまざま。
青崎有吾「縄、綱、ロープ」 火村英生ものの、相当に完成度が高いパスティーシュ。知らずに読んだら有栖川有栖本人の手によるものだと思ってしまうに違いない。フーダニットとしてもクイーン的な手掛かりが採用されていて、愉しいです。
一穂ミチ「クローズド・クローズ」 火村&アリスものが続くのだが、読んでいてなんだか違和感。そうか、三人称で書かれているのだな。ちょっとわちゃわちゃした感じが、二次創作らしさがあって良いです。女子高を舞台にした盗難事件というのも、本家ではなさそうな趣向であります。文化祭の演目とのアナロジーが謎解きに落とし込まれていて、うまいですな。
織守きょうや「火村英生に捧げる怪談」 怪談とその現実的な解釈というのが、リアリストらしいキャラクターに合っています。日常の謎のものとしてアイディアを盛り込みつつ、段階的に手が込んだものになって、最後はいい塩梅の落としどころへ。
白井智之「ブラックミラー」 アリスが出てこない火村もの。タイトルがノンシリーズ長編『マジックミラー』を思わせるように、ゴリゴリのアリバイ崩し。トリックからなにからキレっキレです。
夕木春央「有栖川有栖嫌いの謎」 本書の中で唯一、二次創作にはあてはまらない短編。ユーモラスな日常の謎ですが、綺麗な伏線回収が気持ちよく、導かれる真相も意外性充分。
阿津川辰海「山伏地蔵坊の狼狽」 メタ趣向まで推理内に取り込む、凝りに凝ったフーダニット。名探偵小説そのものに対する批評にもなっているし、シリーズ二十年後の番外編としてもよくできている。
今村昌弘「型取られた死体は語る」 英都大学推理研ものだが、そこここに令和の時代が反映されている。扱われているのは疑似事件現場であり、配置された小道具の意図の確定が難しい。仮説のスクラップ&ビルドがねちっこい、推理研メンバーによるディスカッションそのものが読みどころ。
2024-12-31
アントニイ・バークリー「地下室の殺人」
とある住宅の地下室、その床下から女性の射殺体が発見される。調査にあたったモーズビー警部は、苦心の末に被害者の身元を突き止める。彼女はある学校で働いていたのだが、モーズビーは友人の小説家ロジャー・シェリンガムがそこで臨時に授業を行っていたことを思い出し、彼のもとを訪ねるのだった。
1932年長編。全10作あるロジャー・シェリンガムもののうち8作目にあたります。
シェリンガムはくだんの学校において水面下で進行していた様々な不和を察知しており、それらを使って小説を書きかけたこともあった。モーズビーはシェリンガムに被害者の名前を教えず、自身で書いた原稿を読みなおしてそれを当ててみては、と提案する。
ここで、70ページと少しある「ロジャー・シェリンガムの草稿」という章が挿入されます。ユーモアを交えながらも、(事件が起こる以前の)教師たちの人間関係や、その間で持ち上がっていた問題が明らかになっていく。
しかしよく考えると、わざわざ作中作の形式をとる必然性はないのでは。この部分の内容を最初に語っておいて、次にモーズビーらによる捜査を描けば済むだけの話ではないか。
被害者当ての趣向にしても、大して推理らしいものもなく、簡単に答えは明かされてしまうのだから。
ともかくその後、再びモーズビーによる捜査の様子がこと細かに描かれます。4分の3くらいまで物語の中心になっているのはモーズビーの活動であって、手堅い警察小説としての趣きであります。
そうして犯人の目星は付いたが、証拠がない。取り調べではったり交じりの揺さぶりをかけるが、被疑者は全くひっかかってこない。進展がなくなったことでようやくシェリンガムが本格的に動き出します。しかし、「単に一瞬頭にひらめいたことを話したにすぎな」いのに、それである関係者の重大な秘密を言い当てたりするのは、どうなのだろう。シェリンガムも作者も楽をし過ぎでは、と思わなくはない。
そのシェリンガムの推理だが想像力に基づく、といえばもっともらしいが内実はとても恣意的なものに思えるし、細部などはあいまいなままだ。犯人がいかにして被害者を地下室に連れ込んだか、をさんざん問題にした挙句にこの説明では納得はし難い。結局のところ、その推理が真相となるか否かは作者の匙加減ひとつであります。客観的に見ると、警察が目を付けた人物が実は潔白であった、という根拠は薄弱なままなのだから。
そして、この作者らしい捻りをもって物語は閉じるのですが、同時にパズルとしてのいい加減さにも駄目押しになっていて、じゃあモーズビーによる捜査に対するシビアさはなんだったのか、という気はします。
読んでいる間はそれなりに面白かったのだけれど、こじんまりしていて、バークリイ作品の中では落ちるかな、と思いました。
2024-12-01
アンソニー・ホロヴィッツ「死はすぐそばに」
探偵ホーソーンもののシリーズ5作目で、英国でも出たのは今年だそう。
これまでの作品ではすべてワトソン役であるホロヴィッツによる一人称で語られていたのだが、今作は三人称を採用、事件関係者たちの視点より物語が始まる。そこでは殺人が起こる以前、被害者が皆からいかに嫌われていたかが描かれている。
クリスティはポアロものからヘイスティングズをお役御免にすることでマンネリを回避、ミステリとしても形式の自由度を獲得したのだが、このシリーズ内からホロヴィッツを追い出すわけにはいかないだろう。次の章に入ると、それまでの文章が作中存在としてのホロヴィッツによるものであったことが明らかになる。
ホロヴィッツは出版エージェントから、ホーソーンを主人公にした作品の新しいのを書けとせっつかれていたのだが、そう都合よく事件は起こってくれない。そこで、自分と出会う前にホーソーンが解決した事件を小説化することを思いつく。ホーソーンはそのことに同意はしたものの、事件についての資料は全部まとめてではなく段階的に分けて渡し、解決は最後になるまで教えない、という。ホロヴィッツは結末がわからないまま作品を書くことになったのだ。
以降、章ごとにホロヴィッツによる作中作と現実パートが交互に語られるのだが、作品の中盤あたりでホロヴィッツによってミステリとしてはあるまじき行為がなされる。果たして物語はどう決着をつけるのか。
謎解きは伏線回収のつるべ打ち、といった感じのキレキレのもので読み応えがあります。いつもながら、本当にうまい。
ただ、この作品に関しては(はっきりとは書きませんが)ある難しい趣向を扱っていることが明らかになります。そのせいか、次第にホーソーンの推理にも想像に過ぎないところが増えていき、全体としての説得力が弱い印象を受けてしまう。
本書の中でホロヴィッツが密室ミステリを批判するのに「犯人たちはあまりに手ぎわがよく、ときとして人間離れしているほどだ」と語っているのだが、その言葉はこの作品自体の犯人像のほのめかしだったのかも。
それでも、真相を宙吊りにするような最後の展開は豪いもので、奇妙な非現実感すら漂っている。その直前までクリスティかと思って読んでいたら何だこれは、というね。ひとによってはやりすぎと感じるかもしれませんが。
結構な意欲作だと思います。プロット上のツイストも効いていて、読んでいる最中の面白さはシリーズでも上位でしょう。
2024-11-10
Chris & Peter Allen / Album #1
まさにサンシャイン・ポップのファン待望のリイシュー、と言いたいところなのだが。出してくれたのは隣接権切れ専門のオールデイズレコード。ということは板起こしか。
国内流通仕様の輸入盤という体になっていますが、例によって音源のライセンスに関するクレジットは何も記されていませんし、原盤を出しているはずの台湾の会社「ONCE MORE MUSIC」で検索をかけてもオールデイズレコードのカタログしかヒットしません。著作権の緩い台湾で出されたものを、こちらは輸入しているだけ、という建前で法律を搔い潜ろうとしているように思うのは穿ち過ぎか。
ついでにケチをつけるとライナーノーツの文章は日本語として結構ひどいです。また、クリス&ピーター・アレンのキャリアに触れた部分は主にウィキペディアからの情報を単なる想像で補ったものですが、その中で彼らはジュディ・ガーランドとともに来日して、その後3年近く日本に住んでいた、なんて書いてあります。1964~67年ということになりますが、その間もABCよりシングル・レコードを出したり、ガーランドのTVショウに供に出演していたわけで、流石に話に無理があるのでは。
さて、本題ですが。
「Album #1」は後にソロで身を立てるピーター・アレンが、男声デュオ時代に残した唯一のアルバム。1968年、Mercuryからのリリース。
プロデュースはアル・カーシャ、アレンジはジェリー・ロスとの仕事でお馴染みジミー・ウィズナー。ということはニューヨーク録音ですかね。
この頃、ピーター・アレンはまだ本格的に作曲を始めていなかったせいか、収録曲は外部の作家によるものか、有名なもののカバーとなります。
突出していいのはアル・カーシャが自分で書いた "Ten Below"。これなんていくつものコンピレイションに採られて、既にクラシックだと思うのだが。自然な転調を利かせたキャッチーなメロディに、シャッフル・ビートと細かく動くベースラインが気持ちを浮き立たせ、鉄琴や洒落たトランペットらが華やかな雰囲気を盛り上げる素ん晴らしい出来栄えであります。
他では、トニー・パワーズ&ジョージ・フィショフ作の "A Baby's Coming" もドリーミーでドラマティックなアレンジが良いです。
カバー曲ではスタンダードの "Just Friends" が気に入っております。ジャジーな感触を残したソフトサウンディングなポップスとして、同時期のA&Mレコードと通ずるようなテイストがたまらない。クリス・モンティズも取り上げている曲ですが、わたしはこちらの方が好みです。
残りの曲も手をかけたプロダクションで、メドレーになっている曲などはいわゆるバーバンク・サウンドを思わせます。歌声の弱さが気になる瞬間もあるのですが、全10曲で25分ほどしかないので、するっと終わってしまう。
これで音質がよければねえ。
なお、ボーナストラックとして、1966年にABCより出されたシングルの中より2曲が選ばれています。これらはどちらもピーター・アレンの自作で、うち "Two By Two" はP. F. スローン&スティーヴ・バリーが制作、マージー・ビート風からフォーク・ロックへと変化するアレンジが面白い。もう一曲の "Middle Of The Street" は相方のクリス・ベルとの共作で、こちらはなかなかの佳曲。力強く歌おうとして、却ってへなちょこになってしまっているのはご愛敬。
2024-11-09
孫沁文「厳冬之棺」
昨年邦訳された華文ミステリで、本国では2018年に発表されたもの。著者である孫沁文(スン・チンウェン)は2008年にデビューして以来、密室ものの短編を多数発表してきたそうですが、長編としてはこれが第一作ということ。
いわく因縁のある一族の中で連続して起こる密室殺人が扱われているのだけれど、人名以外は翻訳ものを読んでいるという感じがあまりしない。人工性が非常に強く、懐かしの新本格テイストもありますが、犯人の期待通りに物事が全て運ぶようなところなど、戦後すぐの探偵小説のよう。また名探偵のキャラクターなどは作り過ぎで、とても真面目には受け入れがたいのだが、これはわたしが年寄りだからかもしれない。
ひとつひとつの密室はそれぞれ捻った状況が興味を引くもので、創意が感じられます。この辺りは流石、密室物のエキスパートというところでしょうか。
謎解きは意外にちゃんとしている、と思いました。都合の良すぎるところは多いのだけれど、無視できないほどの穴に関しては後からフォローが入ります。これを後出しではなく、きちんと手順を踏むように構成できればもっと説得力あるものになると思うのだが。配慮があるにも関わらず、損をしている感を受けるのです。
しかし、探偵役が最終的な真相に気付くきっかけに関しては、面白い伏線こそあれども読者に推理できるようには作られていないよね。
なお、肝心の密室トリックはというと、これは実現性の疑わしいものばかりだけれど、リアリティのレベルを段階的に下げながら開陳されているので、受け入れやすくなっていると思います。何よりスケールの大きさ、独創性が素晴らしい。
粗は目立つのですが、それを補って余りある豪快なアイディアが愉しい作品でした。なんだか華もありますしね。
2024-10-26
ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ「止まった時計」
昨年に短編集が出たのに続き、国書刊行会から全三巻の「ジョエル・タウンズリー・ロジャーズ・コレクション」が年一冊の予定で出されるそうで、これはその第一弾。
1958年に発表された、ロジャーズ最後の長編です。
物語の冒頭で既に事件は起こっている。元女優、ニーナは自宅で何者かに襲われて瀕死の状態にある。そして、そこに至るまでの出来事が多視点より語られる。
ニーナは何度も結婚を繰り返しており、その相手たちとの出会いと別れ、彼ら自身の現在の生活と妄執が明らかになっていく。元の夫たちはみな、かつて社会的に高い層に属していたのだが、凋落を経て今では日々の金繰りにも汲々としているようだ。
本作でも同作者の『赤い右手』と同じように、改行しただけで時系列が飛躍する語りが採用されている。事実なのか想像なのか判別しづらいエピソードが堆積していくうちに、話の流れはつかめてくる。
ただ、『赤い右手』は長編としてはコンパクトであったのに対し、本書はハードカバーで400ページ強の分量がある。その前半は登場人物たちの波乱に満ちた来歴が主であって、ミステリを読んでいるという感じが希薄なのだ。独特の叙述もあって正直、疲れてくる。
しかし中盤あたりから、物語は異様な展開を始める。細部にまで因果性を求めるミステリの作劇からは外れ、ちょっとなさそうな偶然の連鎖が、むしろ必然のように立ち現れる。登場人物たちはそれぞれの役割を果たすよう見えざる手によって導かれ、一気にドラマが動き出す。
そうした末、いきなりのタイミングで明らかになる真相。伏線の数々が一気に回収され、一見、無駄な描写と思われた細部にも意味があったことがわかるのだ。この辺り、ちゃんとしすぎていて逆に驚いた。
さらに終盤に近付くにつれ、作品内の時間の流れる早さまでが奇妙なものになっていく。あたかも求められる結末を実現するために。
なんだか凄い作品であります。プロット上、不必要に見える部分は残るし、とても自分勝手な理屈に基づいて書かれたように思える。ミステリには「狂人の論理」を扱ったものがあるけれど、ここでは作者のロジックが奇妙なのだ。
だからこそ、面白かった。
2024-10-06
エラリー・クイーン「Zの悲劇【新訳版】」
2年ぶりとなる創元推理文庫からのクイーン新訳はドルリー・レーンものの第三作であります。角川文庫版が出てからは13年ですな。
前年(1932年)に発表された『Xの悲劇』、『Yの悲劇』が芝居がかった道具立てのなかで繰り広げられる絢爛としたパズルであったのに対して、今作では冤罪を晴らす、というのがお話の中心であるせいか、ドラマの構築に重心がかかっているような印象を受けます。
プロットの重苦しさを緩和するように若く活発な女性の一人称でこの作品は語られます。レーン自身が事件に関係し始めるのは物語の中盤あたりであって、その分、シリーズの前二作と比べると推理の密度が落ちる感は否めません。
レーンが捜査に参加してすぐ、冤罪であることは明らかにされます。ただし、証拠はない。他ならぬレーン自身のミスによって、それを証明する手立ても無効化してしまう。作品世界内では前作『Yの悲劇』から10年が経過していて、さすがのレーンも衰えたか、そう以前は思っていたのですが、今は考えが少し変わってきました。そう単純ではないかも、と。
第一作の『Xの悲劇』の時点で既にレーンの事件への関与・影響が始まっていたことを考えると、故意という可能性も捨てきれない。レーンと作者クイーンが共犯関係にあって、レーンが事態に働きかけることで作品が成立しているわけで。麻耶雄嵩みたいですけど。
クライマックスの消去法による推理には、厳密に言えば穴がないわけではない。けれど、それを指摘するのは小説に一度も出てこない人物を容疑者にするようなもので、個人的にはさほど気にならない。とんでもない迫力をもつ推理で押し切ってくれる。
しかし、この結末はどうだろう。本来は冤罪から老人を救うことが目的であって、フーダニットとしての解決はあくまでその手段であったはずなのに。見事に手段と目的が顛倒していて、それが素晴らしい。
誰も救わなかったようにみえる解決、だが満足した人物がひとりいるのではないか。
ところで、今回読んでいて初めて疑問をもった箇所があって。第一章の終わりから二番目の段落でペイシェンスが、一日早くリーズに出発してフォーセット医師に会っていたら「のちになってあれほど悩まされた謎も、あっさり解けていただろうに」と言っているのだが、これはどの謎を指しているのだろう?
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