2015-08-26

エラリイ・クイーン「九尾の猫〔新訳版〕」


わが同胞Qよ、おまえはおしまいだ。あとは復活するしかない。〈猫〉を追うために。
つぎは何が起こるか。
おまえは何をするか。
どこを探すか。
どうやって探すか。

1949年に発表されたシリアル・キラーもの。物語が始まった時点ですでに5人が犠牲になっている。そして、被害者たちの間にはまるで接点が見当たらず、それゆえにニューヨーク中の誰が〈猫〉と呼ばれる犯人であってもおかしくはない。
通常のように限られた容疑者の動機と機会を捜査するという手順が踏めず、全くの手詰まりのまま被害者は増え続ける。


クイーンのファンにとってはとても面白い作品だ。こんな発想のミッシング・リンクはそうないだろう。また、エラリイがそれぞれ姉を失った二人の男女に下した最初の指令なども、いかにもクイーンらしい。
『災厄の町』以降の、探偵小説を通してアメリカ社会を描く、という面でも読み応えがある。さまざまな国から移住してきた被害者たちの家系が事細かに語られ、人種や文化が入り混じる場所であることが強調されているようだ。

一方で、謎解きの切れ味を期待すると、それほどではない。決定的な手掛かりにクイーン親子が行き当たるのは、偶然のきっかけによるものだ。
また、前作である『十日間の不思議』では真犯人の奸計にエラリイが陥ってしまったのだが、この『九尾の猫』における捩れは、そもそも初歩的な捜査上のミスによるものだ。
さらにいうと、事件解決のためだけなら、わざわざエラリイは飛行機に乗ってウィーンまで行く必要はなかったはずだ。探偵のアイデンティティを危機にさらすことに目的があるように見えてしまう。
もっともこんなことが気になるのは、僕がこの作品を何度も読んでいて、素直に楽しめなくなっているからであって。時代を反映して作風を変容させながらも、クイーンはパズルから逃げなかった。『九尾の猫』はその偉大でいびつなひとつの達成だ。


作者クイーンとしてのテンションの高さ、それが今回読み直して一番の魅力だった。
たとえば路地裏の逮捕劇――。

またひとつ星が出た。
まわりの建物の裏窓はどれも煌々と明るく、あけ放たれていた。ずいぶんにぎやかだ。いくつもの頭と肩がそこにある。特等席だ。そう、闘技場。闘犬場。お楽しみ。見ることはけっしてかなわなくても、見たいと望むのはかまうまい? ニューヨークでは、だれの目にもそうした望みが宿っている。劣化していく古い建物。歩道の掘削。口をあけたマンホール。交通事故。どうした? 何があった? だれがやられた? ギャングか? あっちで何をやってる?
たいしたことではない。

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